辻井 伸行

Nobuyuki TSUJII | ピアニスト | PIANIST

写真=蜷川 実花 聞き手=中島 さち子 | ジャズピアニスト 数学者

振動を味方に。
「その場でしかできないこと」を楽しむ
年の瀬が迫る某日、東京都内の某所会議室に辻井伸行さんがあらわれた。2007年には19歳でリリースしたデビュー・アルバム『début』が、クラシックとしては異例の28万枚の売り上げを記録し、2009年にヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールに日本人で初優勝、今や世界中を飛び回って演奏を行うピアニストだ。辻井さんは小眼球症であり、出生時から目が見えない。彼はどのように音楽を感じ、どのように演奏しているのだろうか。
聞き手はジャズピアニストで数学者という異例の経歴を持つ中島さち子さん。さまざまな角度から話を聞く中島さんに、辻井さんは少し横に揺れてリズムを取りながら、ゆっくりとはっきりと言葉を紡ぎだした。
ピアノと仲良くなる
私は、普段はニューヨークに住んでいるのですが、たまたま日本に来ていたタイミングでインタビューのお話をいただきました。辻井さんのピアノが大好きなのでとても嬉しかったです。
じつは今年の9月にニューヨークに行って、カーネギーホールでオーケストラとコンサートをしたんです。
ああ!すごく伺いたかったです。ニューヨークのお客さんはどうでしたか。
温かく聴いてもらいました。ニューヨークの聴衆は耳が肥えていて厳しいと聞きますが、いい演奏には温かく拍手をしてくれます。カーネギーホールは3回目で、うまく言えませんが、特別なホールだと思っています。音の響きもいいですし、歴史も感じますし、ピアノの状態も素晴らしい。
ピアノにはそれぞれ個性がありますよね。
素晴らしいピアノだと一音弾いて、「わあ、これはすごいピアノだなあ」と感じることができて気持ちがいい。ホールによっても響きは違いますし、ピアノによっても音が違います。時々、海外の古いホールや、あまり弾かれていないピアノが用意された会場にいくと、音が鳴りづらくて。そういうときは苦労します。コンサート前のリハーサルでは、ピアノと会話をして仲良くなって、お互いにやりたいことを理解し合います。そして本番ではお客さんとも一体となって音楽を共有する。ピアニストは自分の楽器を持ち歩けないので、それが不便ではありますが、いろんなホールでいろんなピアノと出会えるのは楽しいことです。
ジャズの場合だとホンキートンク(調子はずれのピアノ)でも、それはそれで面白いとされることがあります。辻井さんのご専門はクラシックですが、標準的な「美しい」とは違っているけれども、個性的で面白いピアノと出合ったことはありますか?
海外だと珍しいメーカーのピアノに出合うことがありますね。昔の古いピアノでもすごくいい音が鳴るものがあって、木の感じや、優しい音がいいなあと思っています。
息づかいを感じて
辻井さんはリズムや間合いをどう捉えていますか。
わりと直感的ですね。間の取り方は、ホールの響きによっても違います。それにお客さんが入っているかいないかで、また響きが変わってくる。ですから、その場の雰囲気によって弾き方は変わるし、リハーサルと本番、昨日と今日でも全然違ってきます。うまくいくことも、いかないこともありますが、その場でしかできないことこそがコンサートの楽しみだと思っています。
本番は無心になっているんでしょうか?
集中して、入り込んでしまいます。弾く前は緊張していますが、本番ならではのアドレナリンが出て、気分も興奮して、やはり練習しているときとは違いますね。
少し抽象的な話ですが、私は演奏をするときに人の「気」のようなものを感じます。お客様からもそうですし、同じ舞台に立っている演奏家たちからもいろんな「気」を受け取ると思います。ジャズの演奏の時などは、アイコンタクトを送り合うことが多いのですが、辻井さんはそういった「気」をどのように捉えていますか?とくに指揮者の方とはどのようにコミュニケーションを取るのでしょうか。
ピアニストは基本的に一人で弾く機会が多いですが、オーケストラと一緒の時は息づかいを感じて呼吸を合わせます。リハーサルを重ねていくと、コミュニケーションが取れて分かり合っていき、いいアンサンブルが生まれていきます。
相性もあると思うのですが、とくにゾクっとした指揮者の方はいますか?
色んな方から影響を受けていますが、ピアニストでもあり指揮者のウラディーミル・アシュケナージさんですかね。小さいころからピアニストとして憧れの存在でした。CDをよく聴いていたので、「CDの方だ」と思っていたのですが、横で指揮をしていただいて一緒にツアーを回る機会に恵まれました。音楽も素晴らしいですが、人間としても優しい方で、演奏中もそのオーラが伝わってきます。ツアー中にも、毎日欠かさずにピアノの練習をしているんですよ。「本当にすごいなあ、アシュケナージさんでさえ毎日練習するんだから、自分ももっと頑張ろう」と刺激を受けました。
心で感じる、心で見える
目が見えない方の中には、素晴らしいミュージシャンがいっぱいいますよね。ジャズだと、ロランド・カークがサックスを2本使い、喜びに満ちた音楽を生み出しています。ピアニストでは、小さいころの病気で右手が変形したホレス・パーランや、骨形成不全症のミシェル・ペトルチアーニは誰にもまねできない個性的で独特なタッチで人々を魅了しました。辻井さんが、自分の特性で他の人より優れていると感じることはありますか?
音楽は、障がいかどうかは関係なく、さらに言葉も関係なくできるものだと思っています。うーん、なんでしょうね……自分が特別であるとは感じていません。弾くときに楽しくて、それが音に出ている、ということはあると思います。自分ではあまり意識したことはないですが、跳躍の多い曲を弾いても「(音を)外さない」と言われることがあるんです。
それは手が覚えているのでしょうか。吸い込まれる感覚がある?
感覚でわりと覚えてしまうほうですね。ぼくの両親は音楽家ではないのですが、小さい頃からピアノも何も教わっていないのに、いきなり歌に合わせてオモチャのピアノで曲を弾き出したと聞いています。なんか不思議だなあと思っていますね。今はピアノが身体の一部になっているのだと思います。
——私は目が見えない方たちと一緒に、ジャズの演奏会をしたことがあるのですが、目の見えないサックス奏者であるWolfy佐野さんが、演奏中はサックスの振動を通して、さまざまなものを手で感じているとお話されていました。辻井さんは、似たような感覚をお持ちだったりしますか。
心で感じている、見えています。お客様の空気や、会場全体が集中しているかどうか、すごく見えますね。拍手の振動も感じますし、海外では足踏みをするお客様もいるので、その振動を感じることもあります。例えば、クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝した直後、ヨーロッパで初めて演奏したことがありました。まだ名前も知られていなくて、「どんな演奏をするか聴いてやろう」という冷たい視線で見られているのを拍手で感じて、「イヤな空気だなあ」と珍しく緊張したことを憶えています。でも弾き始めると、だんだんお客さんがノってきて、終わったあとは温かい拍手をしてくれた。「ああ、よかった」って、ホッとしました。だから、そういった会場の空気というのは非常に感じますね。
アーティストにもさまざまなタイプがいて、自分に没頭する方もいますが辻井さんはお客様の空気を感じて演奏されるのですね。
そうですね。いつも客席と一体になって音楽を楽しみたいタイプです。
計算問題を解くように
ピアノを弾く
少し視点を変えてお聞きしたいと思います。私は数学も好きで、数学と音楽の関係についてよく考えています。例えばドミソの音が気持ちよく聞こえるのは、音の波が4:5:6の気持ちのいい数比になっているからです。数学はまじめなイメージを持たれがちですが、アーティスティックでクリエイティブな世界だと思っています。音楽の中にも数学があり、数学の中にも音楽がある。例えば、バッハの曲は非常に構造的につくられていますよね。
ええ、そうですね。
バッハの作品は、建築のように複雑に組み合わされていて、その中に造形美があります。各作曲家の個性もありますが、時代とともにさまざまな挑戦がされている。辻井さんは演奏をする中で、曲が持つ数学的な部分や構造を感じることはありますか。
数学ですか……。あまり考えたことがなかったですね(笑)。でもバッハが複雑な構造をしていて、数学的だとおっしゃる感覚はわかります。ほかにも、リズムが複雑な曲だと違うリズムを両手で弾いたり、割り切れない音符が出てきますよね。その時はまるで計算問題を解いているような気持ちになります。だから、音楽と数学は非常に似ているのでしょうね。複雑なリズムの曲ですと、最初はうまく組み合わせて弾けるのか悩みますが、音がハマっていくとだんだん楽しくなってきます。
最初は違和感がある7連符も、だんだんとなじんでくると。
そうですね。なじんできて、ハマっていく。本番でうまくハマると嬉しいですし、練習した甲斐があったなと思います。ピアノは音が多いから、他の楽器より数学的なものを感じやすいかもしれません。
数学でも20世紀に「複雑系」という考え方が登場し、さまざまな分野に影響を与えています。綺麗な数式ではなく、より混沌としたものに主軸が移ろうとしていて、面白いフェーズになっているんです。
ジャズは自由で「複雑系」だと思われがちですが、きっちりビートを刻んでいて、その中で遊びの部分があります。最近クラシックを聴いていると、すごく自由な世界があるのを感じます。再現音楽だけれども、人や環境によって少しずつ違う。クラシックの自由さについて辻井さんが考えていることはありますか。
まずクラシック音楽は、楽譜に忠実であることを大切にします。作曲家の書き残した通りに弾きつつも、一方で自分の個性も出さなければいけない。出しすぎてもいけないし、楽譜に忠実すぎてもダメで、そこがクラシックの難しいところです。ちなみに、ジャズも小さい頃から大好きで、クラシックの道に行くか、ジャズの道に行くか悩んだことがあるくらいです。最近はジャズっぽい曲も弾いていて、両方いいなあと思っていますね。
クラシックだと作曲家の生きざまも含めて音楽になっていると思うのですが、その人間らしさは意識されていますか。
楽譜を読むと、その人の生きざまをすごく感じますし、作曲家のことはよく調べてから弾くタイプです。ショパンやラフマニノフの家を訪ね、実際に使っていたピアノを弾いたり、実譜を見たりしました。他にも、作曲家ゆかりの地を訪ねたり、実際に歩いていた道を散歩して感じるものもあります。私自身もさまざまな経験をする中で、昔はできなかった表現ができてきている気がしています。
障がいのある人も、障がいのない人も
音楽以外の世界で、興味があったり、コラボレーションしてみたい分野はありますか。
絵や朗読はいいなと思います。画家の方とコラボレーションをして、即興で絵と音楽をつくってみるのもいいですし、朗読に合わせるのもいい。小さい頃は母がよく朗読をしてくれて、即興で物語をつくって、それに合わせてぼくが即興でピアノを弾く遊びをよくしていました。そういうのも楽しそうだなあと思います。
それは素晴らしいですね。小さい頃を思い出すと、私は正しい音に合わせてリコーダーを吹くような音楽の授業が苦手でした。辻井さんがおっしゃったように、お話に合わせて音楽をつくって遊ぶような教育があったらいいのになあと思いました。
楽しいということは大切ですよね。ぼくは母が音楽をやっていなかったこともあって、ピアノを習う時にバイエルから始めるのではなく、好きな曲から弾かせてくれました。ピアノ教室に通う時も、先生が好きな曲を楽しく弾かせてくれた。だから、今でもこんなにピアノが楽しいんだと思います。もし仮に練習曲ばかりをやらされていたら、つまらなくて、今はピアノを弾いていなかったかもしれない。まずは楽しくやることが大事だと思います。
技法からではなく、楽しかったり、心が躍ったりするものから入っていくのはいいですよね。好きなことを仕事にしている研究者やアーティストの方が、そういう目線で教育分野に入っていくと、ますます楽しい場になるのかなと思います。辻井さんが学校に来て一緒に弾けるだけでも、子どもたちはすごく嬉しいでしょうね。
いつかはそうやってみんなに音楽の楽しさを教えてみたいです。
2020年に東京でオリンピック・パラリンピックがありますが、スポーツへの関心はどうですか?
スポーツは好きですね。趣味で水泳をしています。音楽とスポーツって似ていて、集中するところが共通していると思います。あとは、フィギュアスケートの舞台で一緒に演奏するというのは夢ですね。
個人的にはぜひパラリンピックの開会式で弾いていただきたいなと思っています。
そういうコラボレーションもいいですよね。パラリンピックとオリンピックは分かれていますが、一緒にできることをしたいなあと思っています。障がいのある人も、障がいのない人も、一緒にやることが大事だとぼくは考えているんです。母は小さい頃からよく美術館に連れていってくれて、絵の説明をしてくれたり、花火を見に連れていってくれました。その経験は、目が見える人と一緒に話す時にとても役に立っています。音楽は障がいのある人もない人も関係ない分野だと思うので、音楽をきっかけにお互いにエールを送り合えるようなことをするのは、ひとつの夢ですね。
素晴らしいですね。今日はありがとうございます。辻井さんの益々のご活躍を楽しみにしています。

辻井 伸行 | Nobuyuki TSUJII

ピアニスト・作曲家。1988年、東京生まれ。10歳でオーケストラと共演してデビュー。2005年に最年少でショパン国際ピアノコンクールに出場し「批評家賞」。2007年にデビュー・アルバム『début』を発売。2009年にヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにおいて日本人で初優勝を飾る。国内外のリサイタルや作曲など、精力的な音楽活動を行っている。

中島 さち子 | Sachiko NAKAJIMA

ジャズピアニスト、数学者。1979年生まれ。幼少の頃よりピアノ・作曲に親しむ。1996年に国際数学オリンピックインド大会で日本人女性初の金メダル獲得。東京大学で数学を学びながら、音楽活動を開始。現在、ジャズピアニストとして活動をする傍ら、数学研究者としてワークショップや講演を行っている。著書に『音楽から聴こえる数学』(講談社)など。