藤本 聰

Satoshi FUJIMOTO | 視覚障害者柔道 | JUDO

写真=蜷川実花 文=雑司が谷千一

死にもの狂いの43歳
東京パラリンピックを目指す理由
2018年も終わりに差し掛かっていた12月23日、東京都の講道館では第33回全日本視覚障害者柔道大会が行われていた。この競技の男子66キロ級において、長く日本の、そして世界の最前線で戦ってきた藤本聰は初戦から思わぬ苦戦を強いられる。それでもいくつかの激闘を制し決勝戦までたどり着いたが、そこで力尽きた。2020年の東京パラリンピックを目指す徳島県出身の43歳、残された時間はあとわずか。それは、何よりも自分自身が理解している。翌日、取材会場に現れた男の表情はどこか吹っ切れたように、晴れやかだった。この道25年の大ベテランが今、思うこと。
藤本 聰
人間追い込まれるとホンマにね……
いつも頑張ってるのに、
さらに上があったんやなあと思いますね(笑)。
激闘から一夜明けて
日本視覚障害者柔道の今
昨日は壮絶な戦いでした。今回の大会をご自身で振り返ってみていかがですか。
東京パラリンピックに向けてのひとつの大きな試練だったと思います。対戦相手の組み合わせを最初に知った時は「えっ!?」と驚きました。廣瀬誠選手はもちろん、パラリンピアンの初瀬勇輔選手、若手で急成長株の齊藤大起選手と同組で、かなり厳しい、下手したら予選負けもありうると覚悟しなければ、と。すごく不安だったんですが、世界選手権が終わったあとでスイッチを入れ直し、そこからは「死にもの狂いモード」とでも言いますか。それまでの練習よりも、量も質もはるかに高めて、四六時中柔道のことばかり考えていました。人間追い込まれるとホンマにね……いつも頑張ってるのに、さらに上があったんやなあと思いますね(笑)。この1ヶ月は本当にそういう、いい時間を過ごせましたね。
これまでは国内大会でも、藤本さんは長く66キロ級のトップ選手として活躍してきました。今大会と同じように大きな危機感を感じることはありましたか。
ないですね。今はもう、いい若手もいっぱい育ってきているし、自分は追われる立場じゃない。なりふりかまっていられない状況だったので。だから今回は、すごく追い詰められているような感じでしたね。
初戦からいきなり廣瀬選手と死闘があったわけですけど、彼とはもう長年のライバル関係。お互いに手の内を知り尽くした相手ですよね。
30分くらい試合してたんでね、そんなの私も初めてですよ(笑)。廣瀬選手はすでに代表を引退してるんですが、彼は本当に柔道が好きな選手。大会に出る以上、やっぱり優勝するつもりで来ていますから。代表引退してるのに、ですよ?「ええかげんにせえよ!」って感じですわ(笑)。
それは冗談ですけど、結果、彼のおかげで日本ではほとんど経験できないような緊張感ある試合ができたので、それは私にとってすごく良かったですね。この1ヶ月間、「これくらいの壁を乗り越えないでどうする!」「お前はどこを目指してるんだ!」って、本気で何度も自分に問いかけながら過ごして……自分の弱い心をどうにか奮い立たせてきたので。
「自分はもう追われる立場じゃない」という話ですが、決勝で戦った瀬戸勇次郎選手はもちろん、同じグループの齊藤選手も23歳とフレッシュです。後進の成長も著しいですね。
これまで長い間、66キロ級に関しては若手があまり育ってこなかったということもあって。ようやく、後に続きそうな才能が出てきたので、それは素直に嬉しいです。でもまだまだ、本人たちがいろんなことをぐっと堪えて、乗り越えてもらわなあかんことだらけですよ。彼らはこれからが本当の意味で修行というか、苦しいことを乗り越えていく経験をたくさんしてほしいですよね。
藤本選手は20年以上にわたり、世界を舞台に闘ってきていますよね。ご自身が若かった頃と比較すると、日本の視覚障害者柔道のレベルはどう変化してきていると思いますか。
視覚障害者柔道だけではないですが、日本のパラアスリートたちにとって今と昔の一番の違いって、たぶん今の若い選手たちはすごく恵まれてると思います。1998年の世界選手権マドリード大会、僕らは自腹で20万も30万も持ち出して大会に出場していました。ジャージも揃ってないし、バラバラの普段着みたいな短パン穿いてスタジアムの中を歩いて……本当に恥ずかしくて、悔しかった。先進国の中では日本代表くらいでしたから、そんなの。そういうことの積み重ねで、今があると思います。長くやってきて良かったなと。
今は目の前の東京大会も決まって、若い選手たちにはそれが当たり前にあると思ってほしくないんですよ。遠征費も、合宿費も、交通費もなんでも出る——それが当たり前のことだと思わないようにしてほしい。今の代表はほとんどがアスリート就職している選手たち。でも、私はずっと教職員ですし、他の選手たちも生業はマッサージ業とか、病院勤務とか、自営業とか、そういう人たちがたくさんいた。すごい時代になりましたよ。
組手から得る情報
道着から伝わる微かな感覚を頼りに
藤本選手は21歳の時にアトランタ1996パラリンピックに初出場して、いきなり金メダル獲得。当時、世界のトップの舞台で戦うことについてどう感じていましたか。
ちょうどあの時、通っていた学校の理学療法科の3年生だったんです。病院実習の第1期が終わった夏休みでしたね。そもそも私にとってあの大会が、世界戦のデビューでした。正直、やれるんじゃないかっていう自負はあって、何も情報がない中で若さと勢いだけで獲ったような金メダルでしたね。実際には、本当にめちゃくちゃレベル高くて驚きましたけど(笑)。
昔は視覚障害者柔道って、初めから組んでスタートしなかったんですよ。お互いに向き合って、お互いの体を触って、両手を下ろして初めてバッと組む——つまり、至近距離からの組み手争いがあったんです。それも全盲や弱視とか、障がいのクラス関係なく。
それは今とはぜんぜん違う競技ですよね。
そうですね。だから、とくにB1(全盲)クラスの選手に関してはなかなか大変だったと思います。慣れてしまったら意外といけるっていう選手も多かったんですけど、まずはそのルールの変化っていうのが大きいですね。
この選手は力が強いな、面倒な技を持っているな、
なんとなく厄介そうだな
そういう相手の情報や圧みたいなのが、
道着を通してすべて伝わってきます
現在は、視覚障害者柔道のルールとしては、最初に組手の状態で始めるということを除いては、ほとんど健常の柔道と同じルールということになりますよね。逆に言えば、最初に組手の状態で始めることが、視覚障害者柔道の最大の特徴でもある。
そうですね、この最初の組手の瞬間でだいたい「あっ」って、相手の情報がわかるんですね。この選手は力が強いな、面倒な技を持っているな、なんとなく厄介そうだな——そういう相手の情報や圧みたいなのが、道着を通してすべて伝わってきます。試合が始まってみると、「ああ、やっぱり私の嫌なことを仕掛けてくるな」とか、「ちゃんと攻め方わかっとんな」とか、「足技が多いな」とか、そういう感じで情報を足していく。
釣り手と引き手、それぞれどちらからどんな情報を得ているのでしょうか。
右の釣り手のほうがより重要になってきますね。拳が相手の体幹や胸に当たって、そこで圧力やプレッシャーを感じたりとか。相手が攻撃する瞬間も右の釣り手がセンサーとなって受け止めることができますし、逆に自分が攻撃する時も、しっかり自分の釣り手を動かさないといけない。あとは、相手は動きますから、その時に襟を相手の首にパンパーンと当てていくんですね。そういうのはオフェンスにもディフェンスにも重要になってきますね。
自分の中で、相手がどういう選手なのかを明確にイメージするための時間は必要ですよね。
慌てず、騒がず、冷静に、ですね(笑)。最近は、ある程度はじっくりひたすら我慢して、うまくいかないことに対して慌てるようなことがなくなってきた。それによって、いろいろと試しながら試合中にたくさんの選択肢を作っていけるようになるんです。
藤本選手は得意な試合の展開とか、持っていき方があったりするんでしょうか。
まず相手の力を無力化する。柔道着をずらしたりして、相手の嫌なことをするのは得意ですね。相手が得意な技をかけられてなかったりすると、「お、効いている効いている」ってわかるんですよね。相手のストロングポイントを早く見つけ、いかに潰していけるか。そんな感じでやってます。あとは、気持ちで圧倒するとか(笑)。とくに最後はもう我慢比べみたいなところもあると思うんで。根性の見せ合いですよ。
地元徳島から駆けつけてくれる人のため、
明確になった東京パラリンピックを目指す理由
藤本選手は5歳で柔道を始めたということですが、パラリンピックを目指すようになったのはいつ頃だったのでしょうか。
高校2年生の時に、僕が通っていた徳島商業高校にバルセロナパラリンピックに出場する宮内栄司さんという徳島出身の選手が練習に来たんです。宮内さんは全盲の方なんですが、私が体操を一緒にする時、側屈とか、回旋とか、伸脚とか言うんですけど、全然伝えられなかったんですよ。当時は「説明、難しいなあ」くらいにしか思ってなかったんですが、高校3年生の時、現役が終わって、当時の柔道部監督の小泉義章先生が「勉強して理学療法科を受験してみないか? パラリンピックにも挑戦できるぞ」って話をしてくれたんです。先生は過去に徳島県立盲学校に勤務されたこともあって、私の視力が弱いことも知っていた。その時に宮内さんのことを思い出して、自分もそうやって国際舞台に立てるかもしれないのかと、初めてパラリンピックを意識したんです。それからですね、視覚障害者柔道に関わっていったのは。
もともと高校を卒業したら、柔道は続けるつもりだったんですか?
わからないです。先生がそういうことを言ってくれなかったら、私はどないしよったんかなって。いつも人生の分岐点にね、色々と勧めてくれる人がいて。なんか知らんけど、困った時に誰かが何かを差し伸べてくれるんですね。自分でも「上手いこと生きよんなあ」って思いますよ(笑)。もちろんそこで選択して、なんとか切り拓こうとしたのは自分なんですけど。
過去に受けたインタビューを読んでも、藤本選手は東京パラリンピックを強く意識されている印象を受けました。強く東京にこだわる理由を教えてください。
やっぱりね、人生に1回あるかないかのチャンスですよ。東京大会がなかったら、2016年のリオパラリンピックで辞めていたと思います。「45歳で東京か、まだギリギリ行けるよな」って。地元で私に関わってくれている人に直接観ていただけるチャンス。今まで徳島から東京にわざわざ試合を観に来てくれる人なんて、なかなかいませんでしたから。2年くらい前に、徳島から普段からお世話になっているトレーナーやアナウンサーの知人が観に来てくれて、「藤本さん良かったで!」って声かけてくれるんですよ。「あっ、こういう雰囲気のもっとスゴい感じが東京なんやな」って思うと、すごく心強いんだろうなって思うんです。それだけで東京を目指す価値は十分あるなって、自分の中で改めて感じました。初めはなんとなく目指そうかなっていう気持ちだったのが、目指す目的、理由を最近ようやく理解し始めたんです。
模試で満点とっても、東京パラリンピックに出て
メダルが獲れなかったら意味ないんですよ。
最後に勝つ。そこが一番重要ですから
東京パラリンピックまでおよそ1年半を切りました。2018年は藤本選手にとって、東京大会を目指すうえでどのような1年間でしたか。
試練の年でしたね。ルールが変わったので、まずはそれに慣れるのが大変でした。試合の進め方も展開も大きく変わりますし、その経験っていうのは試合でしか得られません。ですから、実際に試合でどんどん自分の手の内を見せていって、技を使って試していくことで失敗して、またそこで対策を考える。そんなことを繰り返した1年だったと思います。
あと今年は海外でも試合を数こなして、怪我もしたけど、それもいい意味で自分を変えるきっかけになった怪我になりました。ジャカルタで肋骨を折った時も、それをきっかけにトレーナーさんとも相談しながら深く話ができたので。そういう意味でも、「やる気スイッチ」から「死にもの狂いスイッチ」を押すことができた1年でもありました。
これまでよりも一段階上のスイッチですね。
「さらに、さらに」「もっと、もっと」って、どんどんそのスイッチを自分で入れることができたので。もちろんこの1年間の結果には満足していませんけど、私の中では最後に勝てればいいと思っているところがあるので。模試で満点とっても、東京パラリンピックに出てメダルが獲れなかったら意味ないんですよ。最後に勝つ。そこが一番重要ですから。
では、2019年はそのプロセスをどのように形にしていこうと考えてるのか、最後に聞かせてください。
世界ランキングのポイントをしっかり取れる時に取るということ。メダルをひとつでも獲れれば、自ずと東京大会への道は開けてくると思うので。おそらく国内では瀬戸選手との闘いになると思うんです。厳密に言えば、彼はライバルであってライバルではない。国内では結局、私と彼が一番と二番だと思っているので、パラリンピックでは二番までを派遣するということになっているから、そういう意味では彼とほんまの意味でのガチンコ勝負はないと思っています。でも、今回は決勝で負けてしまったんでね、今度の6月の大会では彼に勝ちたいです。負けないよ、瀬戸くん(笑)!

藤本 聰 | Satoshi FUJIMOTO

1975年、徳島県出身。視覚障害者柔道男子66キロ級日本代表。B2(弱視)クラス。幼い頃に事故で左目を負傷し、現在、左目の視力はゼロに等しい。5歳から柔道を始め、徳島県立盲学校高等部に進学したのを機に、視覚障害者柔道へと転身。21歳で初出場した1996年のアトランタパラリンピックから3大会連続で金メダルを獲得。2008年の北京大会で銀メダル、2012年のロンドン大会は出場を逃すも、2016年のリオ大会で銅メダル獲得。2020年、東京大会を目指す。