片山 真理

Mari KATAYAMA | アーティスト | ARTIST

写真=山谷佑介 文=佐久間裕美子

よりよく生きることが美しい
繰り返す日常の「偽物」と「自然」
片山真理、とGoogle検索すると「義足のアーティスト」という枕詞がすぐに目に入ってくる。画像検索をすれば、セルフポートレートのフレームから、こちらを射るように見る彼女の姿が入ってくる。TEDで行われたスピーチでは、低く落ち着いた声で淡々と、子供の頃に遭ったいじめに対して抱いた感情を話す姿が印象的だった。
インタビューに出かける時、こうやって相手についての「予習」をすることはごく当たり前のことだ。「義足」や「いじめ」といったキーワードが必然的に浮かび上がる。大多数の人が与えられない肉体上のハンディを与えられ、もう長いこと義足を使っている、そのうえにそれを理由にいじめられるという体験をした、そして今はアートを作っている。
片山真理をインタビューする、という仕事の依頼があった時、すぐに「会いたい!」と思ったのは、彼女がどうやってアートと出合い、自分の表現方法を見つけたのか、つらい時、どうやって切り抜けて、自分の道にたどり着いたのか、彼女の目に今の世の中がどう映っているかを知りたかったから。
片山 真理
ないものは作ればいいじゃない?
今年3月、個展「帰途 On the way home」の最終日、群馬県立近代美術館の玄関で出迎えてくれた片山の存在感は圧倒的だった。義足をつけると180センチになるという肉体的な高さもあるけれど、体から発するエネルギーの強さもあったと思う。この時、片山は妊娠7ヵ月で、あと数カ月後には出産を予定しているという。
簡単な挨拶を終え、2階の展示を案内してもらった。群馬県太田市で育ち、高校在学中に「群馬青年ビエンナーレ’05」に入賞したことが作家活動につながった。そんなゆかりの場所で開催された、「帰途」と題された個展は、片山がかつてマイカーで大学に通学する途中に撮った写真群と、2年前に再び拠点を東京から群馬に移してから撮った写真で構成されている。

「群馬ってとにかく平地で広くて、そこに点々と電柱がつながっていく様子が、勝手にアメリカっぽいな、って。映画『リバーズ・エッジ』の中で、キアヌ・リーブス(演じる役柄)が住んでたあの街並みと重ねて、得意げに群馬に住んでるつもりだったんですけど(笑)。今、ここに戻ってきても、そういう気持ちでいます」

片山の作品を「セルフポートレート」だという人がいる。この会場に立って、そのくくり方はあまりに雑だ、と思う。たしかに自分の姿を、自分で撮影している。けれど、フレームの中には、たくさんの要素があって、一つひとつに意味がある。

「私の場合、最初の手仕事は、オブジェを作ることだったんです。それを自分の体に装着して、写真に撮って、インターネットで説明的に見せるというのが、最初のきっかけだった。私の存在を耳にして、撮りたいと言ってくださる写真家の方に(写真を)撮ってもらったこともあったんですが、いくら自分のもので作った空間でも、人に撮られるとその人の作品になってしまう。そこから自分で撮るかって、安い三脚にのせてタイマーで撮るようになったんです」

アウトプットの形が「写真」であったとしても、彼女が演出する空間である「家」も作品の一部である。自分の手足をかたどったクッションも、パールや貝類、スワロフスキーといった装飾品も、コラージュを複写したステッカーも、作品を作る過程で残る素材をサラダオイルに漬けたオブジェも、みな片山が手を動かして作ったものだ。

「使う素材は、日常生活で使うもの、生活に密着しているものが多いんです」

天井から吊り下がった大型のインスタレーションに差し掛かったとき、片山は、「Living well is the best revenge」というスペインのことわざがある、と言った。

「誰にリベンジしたいわけでもないんですけど、よりよく生きることが、結局、一番いいんじゃないかって思うんです。でもそれは、日常の繰り返しがあるからこそできることだと思うんですよね」

「いまだにアートがなんなのかわからない」とたびたび口にする片山にとって、「日常」「生活」が大切なテーマになっている。他人には決して想像できないような葛藤を乗り越えてきて、少しずつ時間を積み重ねることに一番の美しさを見つける境地にたどり着いた人でないと、できない考え方だと思った。
アーティスト、片山真理。群馬県太田市に育つ。脛骨欠損という、主幹を成す太い骨がない病気を持って生まれた。左手は生まれつき指が2本しかない。

「足があった時は、ブーツのような補装具を履いていて。それを履いていると、普通の子供服がちゃんと着られない。我が家には『ないものは作ればいいじゃない?』という家訓がありました。母子家庭で経済的状況は厳しかったので、本当に必要なものしか買わなかったし、母や祖母が古い服をリメイクして着せてくれました」

9歳で自らの意思で足を切断して、義足との付き合いが始まる。家で遊ぶ時間が増えるとともに、漫画にはまり、絵を描くようになる。母や祖母の影響で、最初に手にした道具は針と糸だった。母が以前にはモデルをしていたこともあり、そのおかげもあってファッションの世界に憧れ、義足に絵を描くようになった。

「中学時代から自分で服をリメイクするようになったんですけど、ファッションのセンスは本当にないみたいで、まったくおしゃれにならない(笑)。ファッションへの憧れの気持ちはいまだに持っています」

美容師として働きながら、シングルマザーとして自分を育ててくれた母は、娘に安定した人生を望んだ。

「将来も肉体労働で稼げる体じゃない、手に職をつけて安定した人生を送りなさい、と言われ、自分でも会社員になろうと思っていました」
転機が訪れたのは、会計士の資格をとろうと進学した商業高校に在籍していた頃だ。当時の先生は、就職のために必要な小論文が苦手だった片山に、「義足に描いている絵についてだったら書けるのでは?」と勧めた。

「その先生がたまたま美術部の顧問で、私の書いたテキストを、ビエンナーレの審査に提出してくれたんです」

ビエンナーレの一次審査は、作品のコンセプトを説明するテキスト、二次審査は、展示できる状態にした作品だった。「二次審査の作品は大したことなかったのですが、テキストが評価されて通ってしまった」。これが片山のアーティスト・デビューになる。

「美術の授業もないような学校に通っていたし、それまで絵を描くことは好きでしたが、アートがなんだかわからないまま、活動を始めてしまったんです」

同じ頃、もうひとつ大きな出会いがあった。ビエンナーレに入賞する前、当時バンタンデザイン研究所の学生だったスタイリストの島田辰哉と、ソーシャル・ネットワーク「Myspace」を通じて知り合い、モデルになることを依頼されるのだ。

「とにかくファッションが好きだったのでうれしかった。島田さんとの出会いときっかけがなければ今の自分はないと思っています」
自分の表現が評価されてからも、アートで生活するという発想はなかった。けれど群馬青年ビエンナーレの審査を務めたキュレーター、故・東谷隆司との出会いがまたひとつの後押しになる。

「当時の自分は、作品を作るようにはなっていたけれど、誰にも見せられなかったし、自分でもそれが何なのか、理解できなかった。作っちゃうんです、という自分を『それでいいんだよ』と許してくれる人がいることが支えになりました」

東谷氏の励ましを受け、東京藝術大学大学院に進学し、担当教授だった小谷元彦氏の勧めで写真の授業を受けた。在学中には、音楽活動も始めるようになった。

「学費の足しにしようとアルバイトを探したのですが、ことごとく落ちました。『なんで?』って(思った)。しょうがないから水商売でもするか、と接客をするつもりでキャバクラに入ったんです。そこから、マスターの亡くなった奥さんに似ているという理由で、ステージで歌を歌わせてもらうようになって。面白いくらい音程も安定しないし、独特なものになってしまうんですが、そこからとんとん拍子に音楽活動をするようになりました」

そうやって表現活動に参加する機会は学生時代からあった。それでもアートで生活するという発想はなかった。

「藝大の学生の意識の高さについていけなくて。卒業後も会社員になろうと、ハローワークに通ったりもしました。エレベーターがあって、トイレが洋式の会社がいいなって(笑)。けれど、どこにも引っかからないんですよ。皮肉なことに、いただけるお誘いは美術のことだけだったんですね」

2013年に愛知トリエンナーレに参加した後ですら、就職活動をしていたという片山だが、今、ようやく表現活動で生きる自分の状況設定を受け入れているようだ。コミュニケーションとしてのアートについて聞いた。

「押し付けがましくない、自由で無責任なコミュニケーションだというところが自分に向いていると思っています。例えば、私の作品を見て、悲しそうとか、寂しそうという人もいる。それを表現したくて作ったわけじゃないんだけど、その人の感情が投影されて、そう受け止められる。それもある意味、コミュニケーションなんだと思うようになりました」

こう思えるようになったきっかけは、藝大の恩師で、スーザン・ソンタグの著作を翻訳している小幡一枝氏の言葉だった。

「先生が、『とにかく本を読みなさい。そうすれば100年、200年前に生きた人と友達になれるのよ』と教えてくれた。今、自分も表現活動をすることで、そういう一人になれるんだと誇りを持てるようになった。生身のコミュニケーションは苦手なので、性に合っているのだと思います」
こうやって話をしていると、生身のコミュニケーションが苦手だとういようにはまったく感じられない。話を聞いているだけでも、むしろ肩の力が入っていないのに人を惹き付ける、生まれながらの表現者なのだと思わせられる。

「小学校から中学生までは、とにかくいじめられました。高校に入ってからは開き直って、切り捨てていくほうになったんですが、それまでは自分をいじめる人たちと仲良くなりたくてしょうがなかった。『なんでそんなに嫌われるんだろう?』と思いながら、より嫌われるようなことをしてしまう。今思えば、自分にも原因があったかなって(笑)。そういうところは下手なんだと思います」


今は、いじめにあったことも、過去にあった事実として淡々と受け入れられるようになった。現在進行系だったときに乗り越えられたのは、母のおかげだった。

「母は『嫌な思いをしたら、笑顔で返してやりなさい』と、微笑みが最大の武器であることを教えてくれた。それが火に油を注いだのかもしれませんけど(笑)、二人で生きてきた、という気持ちが強かったから、彼女を悲しませたくなかった。だからそういうことでくよくよするよりは、できることをやって、楽しいことや役に立つことを学ぶことに目を向けるように育ててくれたんだと思います」

自分の体験が過去のことになったとはいえ、自分自身も母親になろうとする今、「笑顔を」と娘に説きながら、辛い思いをしたであろう母親の気持ちを少し理解できるようになってきた。「(いじめを受けた)当人は意外とひょうひょうとしていたんですけどね。でも、生まれてきた子供が、自分と同じ目に遭ったら、殴り込んでしまうかもしれませんね(笑)」
いじめをまさに今体験している子供たちがいる、そういう子供たちに伝えたいことがあるかとたずねてみた。

「若い頃、マリリン・マンソンを見て、『こういう人がいるんだから、私もいつかはわかってもらえる、わかってくれない人を相手にするのはやめよう』と思えたタイミングがあって。それを支えにやってきて大人になってみると、彼らと同じ世界に生きているかもしれないと思える瞬間があるんです。そういう出会いがあればいいなと思う。そのうち、どうでもいいと思える時がくるから」

片山は海外からの取材を受けるようになって、自身の作品が「フェミニスト・アート」にくくられることがあるという。自分の肉体がモチーフのひとつになっていること、貝殻やパールを装飾に使った手法、ファッション性、こうした要素によって、片山の作品の女性性をフェミニズムの文脈に置こうとする思考は理解できる。ただ、片山本人は、今まで自分が女性の表現者であることに重きを置いてこなかった。

「女性であることはあくまで素材のひとつなんです。作りたい作品のなかに、女性の自分がいる。女性になりたいというより、男にもなりたいし、いろんなものになりたい。女は強いんです、というメッセージを言いたいわけでもない。でも実際、自分が妊婦になってみて初めてマタニティの大変さを理解できるようになった。社会は妊娠した女性に優しくないって思います」
手術をして、人工的にいじったとしても、生きているものは美しいなと思うんです。
うまく生きることが最大のリベンジ(復讐)−片山が、自分の体を模したクッションや髪の毛を使った大型のインスタレーションについて言った言葉が、今も耳に残っている。

「イミテーションやフェイクなものと、『自然』と呼ばれるものって何がどう違うんだろうって思うんです。たとえば義足は偽物だけど、自然でないと言われると嘘になる。群馬の風景を見て、自然だと思う人もいるかもしれないけど、畑も山も人間が作ったもの。それを人工と言わずしてなんというんだろう。そういう疑問を、自分の体にも感じているんです。手術をして、人工的にいじったとしても、生きているものは美しいなと思うんです。そういう美しいものが抱きしめあえば、パズルのようにハマるんだと思う」

片山真理は、大多数の「普通」とは違うかもしれない「日常」を積み重ねていくことで、私たちに多くの疑問を投げかけている。そして今、片山の日常が出産によって、新たな局面に入ろうとしている。これから母親になる片山がどんな疑問を投げかけてくれるのかが楽しみである。

片山真理 | Mari KATAYAMA

1987年生まれ。埼玉県出身、群馬県育ち。アーティスト。先天性の四肢疾患により、9歳の時に両足を切断。高校在学中の2005年に「群馬青年ビエンナーレ‘05」で奨励賞を受賞。以降、義足を用いたセルフポートレートを中心に、裁縫やコラージュ、オブジェなど、コンスタントに作品を発表。歌手やモデルとしても活動する。