一ノ瀬 メイ

Mei ICHINOSE | 水泳 | SWIMMING

写真=蜷川実花 文=雑司が谷千一

私はもう“やるべきこと”だけに集中する
リオパラリンピックを経た今、21歳が得た気づき
リオパラリンピックのメダル候補─そう世間で謳われた2年前。結果は、競泳6種目に出場し決勝進出ゼロ。表彰台の高みは誰よりも理解しているはずだった。
「自分の水泳ができない。それが、吐き気がするほど悔しかった」
そう語る一ノ瀬メイは、2020年東京パラリンピックまでの折り返し地点を迎えた今、世界との距離を急速に縮めはじめた。4年目を迎えた近畿大学での充実した日々、オーストラリア合宿で得た新たな発見。2020年へと高まる熱狂の中、もう自らのスタンスを見失うことはない。2018年春、着実に“work hard”する彼女の土台はより強固なものになりつつある。
一ノ瀬 メイ
リオ本番までは
焦りとしんどさばっかりの半年間でした。
あれほど自分の実力とかけ離れた期待を
背負ったことはなかったかもしれない
自分の実力と世間からの期待
そのギャップに悩まされたリオ大会
リオパラリンピックから次の東京までのことを考えると、今がちょうど折り返し地点になると思います。一ノ瀬さんは自分自身の現在地をどのように認識されていますか。
東京パラリンピックで表彰台に立つのが大きな目標になるんですけど、2017年はメキシコでの世界選手権がなくなったりして、自分の現状みたいなものを知る機会がすごく少なかったんです。タイム的に見ると、正直リオからはあまり伸ばせていない。まだまだ成長スピードを上げていかないと、東京には間に合いません。
タイムが上がらないことにジレンマみたいなものを感じていますか。
練習は確実にやってきているので、あとは結果だけ……。リオから成長していないとは思わないけど、タイムという結果が出ないと意味ないから。
以前、「東京でメダルを獲るためにリオを経験しておく」という独特の言い回しをされていたのが印象的で。実際、リオでは個人種目で決勝進出を果たせなかった。改めて、2年前のリオパラリンピックとは、一ノ瀬さんにとってどういうものだったのでしょう。
リオでは選考会の前から「代表、代表」ってメディアで扱われていたから、出場が決まった時は嬉しいというよりはホッとした感じ。代表が決まったと思ったら、次は急に「メダル候補」って言われて。でも私、当時は世界ランク13位で、普通に考えれば決勝にすら残れないような実力しかなかったんです。コーチや近しい人たちはそのことをわかってますけど、知り合いや同級生からは「メダル獲ってきてね!」って。周りの人たちの期待のほうがすごく先を行ってるから、どれだけ頑張ってもすでに敷かれた道の上を歩いているみたいで、本番までは焦りとしんどさばっかりの半年間でした。
まあでも、結果がどうであれ、自分が満足できる泳ぎができていればぜんぜんよかったんですけど、それもできなかった。吐き気がするほど悔しかったです。
それまでは周囲から過度な期待を受けるような経験をされたことがなかった。
あるにはありましたけど、あれほど自分の実力とかけ離れた期待を背負ったことはなかったかもしれない。べつに注目されるのはぜんぜんよかったし、パラスポーツをもっと広めたいっていう気持ちもあったので、メディアの取材を受けることに抵抗はなくて。ただ、そうすることで生じた周りとのズレは本当にしんどかったなって。
その中で自分の目標を達成する集中力は、東京に向けては絶対に必要。そういう意味では、すごくいい勉強になったとも思えるし、ある意味ではラッキーだったのかもって思います。
喫緊の大きな課題はどんなことでしょうか。
今はひたすら基礎の部分を練習していて。個人的な課題として、自分はベストが出る時とそうじゃない時のタイム差が酷くて。本来なら、もっとコンスタントにいいタイムを出さなければいけないんだけど、それができない。なので、ベストタイムで泳いだ時の泳ぎの再現性を高めることをテーマにしていて。
タイムに波があるというのは、どういうところから生じるものなんでしょうか?
技術面ですね。技術がしっかりしている人は、ガクッとタイムが落ちることはないんです。私の場合は、練習で積み重ねてきたものというよりは、どちらかといえば精神面とか試合前の調整の部分にだいぶ依存しているので。逆にいうと、そこがうまくいかなかったらダメみたいなところがある。ベストを出すことが100だとしたら、その中でメンタルの割合が多ければ多いほど、当日の調子に左右されます。だから技術面を高めることで、土台を作っていくような感覚です。
小学生の時に、地元のスイミングスクールに
入ろうとしたら断られたんです。
もし、その時にスクールに入って
健常の子たちと一緒に泳げていたら……
個人からチームへ
近畿大学水上競技部での経験と発見
近畿大学水上競技部に入って、今年はもう4年生ですね。部の環境についても聞かせてください。
大学を選ぶ時に、まず関西でパラ選手がしっかりと練習ができる環境を作りたいということがありました。近大には50メートルの屋内プールがあったし、入部の際に「インターハイで何番に入ってなければいけない」といった、そもそもパラアスリートを門前払いするような規定もありませんでした。それで、今の水上競技部監督で、アテネオリンピック銀メダリストの山本貴司さんが私のパラの結果を尊重してくれて、入部することができたんです。
近大は、今ではパラスポーツに対してすごく理解がありますけど、私が入学した当時はまだそんなこともなかった。新しいこと好きな大学だから、前例にこだわることも少なく、すごく理解のある環境の中で練習ができることはありがたいです。
団体で練習したり活動するというのも、一ノ瀬さんにとってはそれまでにあまり経験ないことだったのではないでしょうか。
そうですね。当然、健常者の人たちと練習したり活動するので、みんなインターカレッジを目指しますし、インカレは総合得点で競うのでチームにどれだけ貢献できるかが大事な中で、自分はインカレに出場することすらできない。最初のほうは「私にはあまり関係ない話だ」と思ってしんどかったです。
でも、徐々にチームでやることの楽しさや同期のありがたみがわかってきて。先輩や後輩から学んだこともすごくたくさんあるから、やはりチームに入ってみて初めてその面白さに気づきましたね。
パラアスリートの練習環境については、同じ競泳の山田拓朗選手も言及されていました。水泳に限らないとは思いますが、なかなか障がい者が健常者と一緒に泳いだり、練習できる機会が少ない現状があります。そのことで、アスリートとしての競争意識やハングリーさが養われないんじゃないか、と。
私の場合は、小学生の時に地元のスイミングスクールに入ろうとしたら断られたんですよ。もし、その時にスクールに入って健常の子たちと一緒に泳げていたら、きっと今のレベルもぜんぜん違うものになっていたんじゃないかとは思います。正直、オリンピックに出るような選手たちと同じ練習量で取り組むようになったのは大学に入ってからで、それじゃあもう遅いんです。パラは競争率も低いけど、近大水上競技部ではレギュラー争いも激しいし、同じ大学内にライバルがたくさんいる。その中でみんな競い合って、苦闘して、お互いに相談もして、っていうのを近くで見てきて刺激されることはすごく多いんです。だから私も、と気を引き締めるようなところがあるのかも。
競争相手がいないという現実。小さい頃からずっとその難しさは抱えていましたか。
中学2年生の時に日本新記録を出して以来、そこからずっと競り合う人がいなくて。その時点で、もう国内ではなく「世界」を意識しはじめました。ただ、気持ちでは世界を意識しても、国内にライバルがいないから普段からの緊張感、闘争心みたいなものがなかなか自分の中から湧き出てこなくて……。監督からは「試合は戦。全員殺すつもりで試合に出ろ」って言われるんですけど(笑)、私にはその気持ちがわからない。国内の大会に出場しても、相手に勝つか負けるかという「勝負」じゃなくて、自分自身が何秒出すかっていう「作業」をずっとやってきたような感覚なんです。だからリオに行った時も、相手と「競る」っていうことになった時に、気持ちの持っていき方がわからなくて、圧倒されてしまった。だから、もっと海外に行って誰かと競わなきゃって思っています。
一ノ瀬さんの中では、競泳という競技は文字通り相手がいて「競る」ものだと思いますか?
私自身は自分との戦いだと……いや、そうやってずっと思ってたんですけど、オリンピックの時にテレビの解説の人が「この選手は後半が強いから、おそらく作戦では─」なんて話していて、水泳に作戦なんてあったのか!って驚いて。たしかに、オリンピックはタイムを出すための場所じゃなくて、メダルを獲りにいくための場所。タイムを出すためのレースと勝つためのレースが違うって初めて知った時に、軽く衝撃を受けました。
その衝撃を覚えたのはいつですか?
リオオリンピックの時かな。
超最近ですね。
私はずっとタイムを出すという作業しかしなかったから、「前半は抑えつつ様子を見て、後半に最後の50メートルで追い上げて競り勝つ」っていうゲーム感覚が一切なかったんです。私、その実況を聞いて、水泳って面白いなあって。
つまりスポーツにおける「駆け引き」を知らなかったと。
駆け引きしたこと、ありませんでしたからね(笑)。でも最近は、国内で森下友紀選手とは泳いでいる時に「競る」ってことができてるのかな。森下選手が隣のレーンにいる時はすごく楽しいんですよ。森下選手は前半けっこう攻めていくタイプなので、私はあえて横につけて泳いで、ターンしてから後半一気に飛ばす、みたいな感じで泳いでみたり。でも個人メドレーでは、私は2位の選手とは5秒以上タイム差があるから、まだそういうのは難しいなあ。
そもそも一ノ瀬さんの今の記録と世界の記録とではどれくらいの差が……。
金メダルを獲れるような記録までは約5秒ですね。
そういう個人差がすごく発生するところがパラの難しさでもありますよね。だからこそ、相手ではなく自分自身に意識が向く。
単純かもしれないけど、やっぱりもっと競技人口が増えてこないとそういう楽しさはわからないと思います。それは、私が小さい時にスイミングスクールに入れなかったように。もしそこで入ることができる状況があったら、今の競技人口はもっともっと増えていたはず。障がい者が気負わずにスポーツを始められる環境がもっとたくさんあっていいと思うんです。
3ヵ月のオーストラリア合宿
目の前のタイムに一喜一憂しないこと
一ノ瀬さんは昨年12月から今年の2月まで、オーストラリアを拠点にしてトレーニングを積んでいましたね。どういう目的を持って行ったのでしょうか。
オーストラリアはパラ水泳の競技人口が多くて、私と同じクラスの選手もたくさんいるんです。今回はEllie Cole(エリー・コール)という選手と3ヵ月一緒に住んで、練習をして、オーストラリア国内の大会にも3つ出場させてもらいました。普段は近大でみんなと練習をするけど、パラになると一人だったのが、向こうだとパラだけで10人くらいいるから、そこに期待して行ったんです。
その3ヵ月を過ごしてみて、どういった変化を感じていますか。
余計ちっちゃいことが気にならなくなりました(笑)。あとは、ちゃんと地に足が着くようになったというか。今までだと、試合に出てもタイムを出さなきゃ、出さなきゃって焦っていて。でも向こうの選手を見ていたら、もちろん目指しているタイムはあるけれど、今の自分の現状をしっかりと把握していて、そのうえでじゃあ何ができるかってことと向き合っている。感覚だけじゃなくて、ちゃんと理屈を持って考えられるようになったんです。それは、向こうの若い子たちもみんな持ってる感覚みたいで。
日本はすごくタイム重視。オーストラリアでは、タイムはもちろん大事なんだけど、どういう泳ぎをしたかっていうことが一番重視される。精神面の努力ではなく、取り組むっていうことを教わったのかな。目に見える目標、数値に向かって頑張るってことじゃなく、その中身をちゃんと考えることを教わった3ヵ月だったなと思います。そもそも英語には「頑張る」って言葉がないんですよ。“work hard”とは言うけど、どちらかというと「取り組む」って訳すほうがしっくりくる。
一ノ瀬メイ=障がい者代表として、
一括りにされてしまうのは違う。
情報を発する側も受け取る側も、
もっと人を「個」として見ることが
できるようになったらいいなって思うんです
日本にいるだけでは、練習方法も含めてなかなか正解がわからないことも多いと思います。海外に出て、現地の選手たちと長い時間を過ごすことで、初めて見えてくるものもあるのでしょうね。
やっぱり(日本にいるだけじゃ)難しいですよ。まさに正解がないっていうのがめっちゃ難しいところで。こうしたほうがいいのかな、でもこうしたほうがいいのかなってなった時に、それを聞ける人がいないし、聞かれるほうもなかなかすぐには答えられない。今は、私はコーチも監督もいるから相談しながらできますけど、彼らにとっても私は1人目のパラスイマーだったりするので。当然、片手で泳いだことなんてないですから(笑)、そこはお互いに探っていかないと。
オーストラリアには定期的にこれからも行かれるんですか。
そうですね、行くと思います。
カテゴリではなく「個」の尊重
偉大な父と母からの教えを胸に
一ノ瀬さんは、自分の性格やものごとの見方に一番影響を与えたものって何だと思いますか?
お母さんとお父さん、ですね。父がイギリス人で母が日本人なので、あまり日本っぽくないって言ったら変ですけど、いつも多面的な感覚をもらえるんです。父は9歳から一緒には住んでないけど、会うたびに日本では当たり前のこととか、慣れてしまっていることに対して、そうじゃないだろうって気づかせてくれる。母もパワフルで行動的。私は母の言うことが納得できすぎて、反抗期に一切反抗できなかった(笑)。そういう人たちから、ずっとアドバイスをもらい続けてこられたのは大きかったと思います。
具体的にどんなアドバイスをもらってきたのでしょう。
違いを大事にしなさいとは、小さい時からずっと言われてきました。小学校の時に1年間だけイギリスの学校に通っていたんですけど、帰ってきたらすごく自己主張が激しくなってしまって(笑)。当然、日本の学校にはぜんぜん馴染めないし、学校がめっちゃ嫌いになっちゃって。その時にお母さんが「メイちゃんはそのままでいい。もしも馴染めないなら、学校を替えればいい」って言ってくれたんです。そういうことを言える親って、たぶんいないと思うんですよ。もっと仲良くしなさいとか、協調性を重視しなさいとか、普通はそういうことを言う。とにかく母は、人と違うっていうことを大事にしてくれたんです。母も最初、私に腕がないと知った時は相当ショックを受けたみたいで。でも、家に帰って父にそれを話した時、腕はなくても歩いてどこにでも行けるだろって言われて、そこから考え方が変わったって。母は私が小学4年生の時に、イギリスの大学院に入って障がい学を勉強したり、そういうバイタリティもすごい人なんです。
一ノ瀬さんは高校3年生の時、第8回全国高等学校英語スピーチコンテストで、障がいの個人モデルと社会モデルをテーマにしたスピーチを発表し優勝しました。あれからもう4年が経ち、2020年も近づいてます。当時の状況から、何か自分を取り巻く環境や社会の変化を感じることはありますか。
ないです。やっぱりパラリンピック自体がオリンピックと並行して扱われるようなものだと思うんですけど、障がい者=パラアスリートではありませんよね。パラアスリートが活躍すればするほど、それが報道されればされるほど、一方では普通に家で寝ていたい障がい者もいる。最近は、そういう当たり前の状況がすごく対極化していってるように感じます。少し前までは、自分がテレビに出てパラアスリートとして活躍すればするほど、ほかの障がい者を取り巻く環境が変わるんじゃないかって思ってたけど、母に「あなたはエリート障がい者って思われる側の人間なのよ」って言われて、ちょっと考え方も変わってきて。だから、自分が障がい者を代表したような気持ちになって発言するのは無理だなって理解しています。
障がい者に関係ないけど、日本はなんでもカテゴライズしがちな国。思い込みで決めつけたり、勝手に人を分類したり。自分が障がい者として言葉を発するんじゃなくて、もっとそういうことについて発信しようと、そう思うようになったのは高3の頃との違いかもしれない。
最近では、発信する側からもっと純粋に競技力を上げることに集中したいということもおっしゃっていましたね。また、パラスポーツへの注目度の高まりが、必ずしもいい方向に向かっているとも思えない、ということもおっしゃっていました。
自分がやるべきことは、本当にすごい記録を出して「すごい!」って思ってもらうっていうことだけですね。アスリートとして結果を出すことに集中したいなっていう思いが、どんどん強くなってきています。
メディアに出て発言して、人がどう感じたり思うかってことは、私にはコントロールできない。少なからず意味はあると思っているんですけど、難しいですね。情報を発する側も受け取る側も、もっと人を「個」として見ることができるようになったらいいなって思うんです。私も、全盲の人や車いすの人の気持ちがわかるわけじゃないから、一ノ瀬メイ=障がい者代表として一括りにされてしまうのは違いますよね。日本はそういうものごとの見方、個人を個人として見ることが苦手なんだなって。
一緒に競技しているパラアスリートの仲間たちとは、普段そういう話をすることはありますか。
この前はiPS細胞の話題になって、「腕生えるなら生やす?」みたいな話をしましたけど(笑)。でも、みんなそのままでいいって答えがほとんどでしたね。車いすの子も車いすに慣れているから、いまさら足が生えなくても困らないって。後天性の子の中には、東京が終わってもし戻せるなら戻したいって子もいました。オーストラリアに行った時も、現地のチームでその話題を振ったらすごく盛り上がって。足があるとパラに出られないから、パラが終わるまでは待つとか(笑)。面白いですよね。そのうち、自分の体をデザインする時代がやってきそう。それはそれで、怖いからイヤですけどね(笑)。

一ノ瀬 メイ | Mei ICHINOSE

1997年生まれ。京都府出身。近畿大学水上競技部所属。生まれつき右肘から下がない先天性右前腕欠損。障がいクラスはS9/SB9/SM9。1歳半から京都市障害者スポーツセンターで水泳を始める。2010年、当時史上最年少でアジアパラ競技大会に出場し、50メートル自由形で銀メダル獲得。以降、中学・高校年代に国内およびアジアの大会で数多くのメダルを獲得。2016年のリオパラリンピックでは、100メートル自由形(S9クラス)で自己ベストを更新した。