鳥海 連志

Renshi CHOKAI |車いすバスケットボール| Wheelchair Basketball

写真=蜷川実花 文=雑司が谷千一

冷静と情熱のあいだをゆく
「金メダル」を公言する若き牽引役のメンタリティ
花形競技として注目を集める車いすバスケットボール男子日本代表において、チームの中核としてプレーする鳥海連志は長崎県西海市出身の弱冠20歳のプレイヤー。生まれつき両手の指の本数が少なく、脛骨が欠損していた両下肢は3歳の時に切断した。障がいの程度によって与えられる持ち点*は2.0と、コート上の選手たちの中でも低い。新陳代謝が激しい代表チームにおいて課せられる役割と責任は増していく一方だが、あらゆるものごとを客観的に分析し質問に応じるその姿には、すでにベテランの風格すら漂う。2016年に現役高校生ながら出場したリオパラリンピックで味わった挫折、東京大会へ向けて目標に据える金メダル獲得、そして自身のこれからのキャリア──試合中に見せる熱のこもったプレーとは対照的に、鳥海のまなざしはどこまでも冷静にその先を見つめている。 * 車いすバスケットボールの特徴的なルールに「クラス分け」がある。ルールやコートの広さは一般のバスケットボールと変わらないが、選手たちは障がいの程度によって1.0から4.5まで0.5点刻みで持ち点が与えられ、コート上の5選手の合計が14.0を超えてはならない。持ち点が低いほうが障がいの程度は重いのが一般的だが、鳥海の場合は体幹バランスに優れ、敏捷性や車いすの取り回しのテクニックも高いため、戦力的にも貴重な存在である。
鳥海 連志
最初に車いすに乗ってプレーさせてもらった時、
僕はできないのに周りのおっちゃんたちが
みんなできてるっていう状況が悔しくて、悔しくて
「なんでもやらせる」 環境が育んだ
できないことを許さない負けん気の強さ
まずは鳥海選手が幼少時代、どのような環境で育ったのか教えてください。
他の取材でもよく話すのですが、僕にとって通っていた「菜の花こども園」の存在がすごく大きくて。山を切り拓いてできたような保育園で、子どもの頃のイメージでいうと「お城」ですかね。保育園自体が山の中に自然にあるような感じで、階段が滑り台になっていたり、山の斜面を利用した遊び場があったり、きっとほかの保育園と比べてすごくアクティブに遊べる環境があったと思います。
先生たちと自分の両親が、どういうふうに僕が育っていってほしいかをしっかり話し合ってくれて、その中でひとつの方針として、僕がやりたいことがあれば必ずなんでもやらせる、もしできなければできる方法を探していく、というルールのようなものをつくってくれたんです。それは今の僕の考え方にも大きな影響を与えていると思います。
その取り決めは親御さんの意思だったのでしょうか。
そのへんのことはよくわからないのですが、園には僕のほかにも何人か障がいをもった子どもがいて、彼らにも同じようにやりたいことをやらせるという環境だったと思います。まずは保育園として、障がいの有無にかかわらずフラットに受け入れるという体制がしっかりできていたし、自分の両親も「連志にはやりたいことはやらせる」という考え方ははっきりあったみたいなので、(保育園とは)すごくいい出会いだったというか。だから、僕ものびのび生活できていたんだなと今になって思います。
そういう保育園とご両親のもとで育って、自分の障がいを初めて意識したときのことを憶えていますか?
それも幼い頃ですね。なんでもやらせてもらえる環境だったとはいえ、やはりやってみてできないこともあったし、それを自分なりに考えてやるっていうことは、僕も小さいながらに自覚があったので。それに対してとくに抵抗や不安はなかったんですけど、人とは違うんだっていうことは認識していたと思います。
スポーツと関わるようになったのはいつからですか?
競技として始めたのは中学1年の時で、部活でテニス部に入りました。といっても、6月にはやめて車いすバスケットボールを始めたので実際は遊び感覚でした。そもそも小学校の6年間で、サッカー、野球、バドミントン、バレーボール……いろんなスポーツを経験しましたけど、どれも遊びの中で覚えていったものです。うちがバスケ一家だったこともあって、ひとつ上の兄のミニバスの試合を応援しに行ったり、父とバスケをずっとやっていたので、バスケの道に進むことは自然な流れで。あとは車いすに乗る面白さもあったんですよ。最初の頃は競技用の車いすをうまく乗りこなせなくて、ターンできずに転倒したりとか、遊び道具として捉えていたところもあって。それでどんどんのめり込んでいったのかなって思います。
バスケ一家だったら、鳥海さんがバスケを始めたことはご両親も喜んでくれたんじゃないですか?
どうでしょう、わからないですね(笑)。ただバスケを始めるにあたって反対こそされませんでしたけど、家族と話し合いをしたことは憶えてます。テニスをやめてバスケに転向する時に、これからちゃんとバスケットボールに取り組むのかどうかって。そこからすごくサポートしてくれるようになりました。
最初に所属した車いすバスケットボールのチームはどういうチームだったんですか?
佐世保にあるチームで、九州の中でもつねに1~3位を争うような強豪でした。当時は僕と一番近い世代でも歳が10くらい離れていたので、レベルは高かった一方で、すごく僕をサポートしてくれる環境があって。ちゃんと僕が車いすバスケにハマるように導いてくれていたのかな(笑)。僕が入ったタイミングで、チームとして基礎をイチからやっていこうという方針を立ててくれて、僕が成長できるような場面をつくってくれた。いろんな面ですごく支えてもらいましたね。練習を重ねてジュニアの合宿に参加するようになってからは、同世代の選手たちとも会うようになりましたけど、最初の1年くらいはずっと先輩たちと練習していました。
初心者ながら経験ある先輩たちと練習することで、得るものも大きかったのではないですか。
最初に車いすに乗ってプレーさせてもらった時、僕はできないのに周りのおっちゃんたちがみんなできてるっていう状況が悔しくて、悔しくて。それからはシュートに関してはこの先輩に勝つ、スピードに関してはこの先輩に勝つって、一つひとつ目標を立てていってすべて制覇してやろうと。だからできなくてイヤになるというよりは、そういう悔しさの感情のほうが大きかったかもしれません。
勝気な性格がスポーツに向いていたんですかね。
小さい頃から負けず嫌いの気質があって、たとえ遊びでも自分が納得できないと、とことん納得するまでやるような子どもだったと思います。自分の中で満足できる基準みたいなのがあって、それをクリアしないと気が済まないというか。でも、基本的には楽しいからやってるっていう。いま思うと、競技者としてスポーツに参加できて嬉しいっていう気持ちもあったのかもしれません。
そういう性格が功を奏したのか、車いすバスケットボールを始めて1年あまりで世代別の強化合宿にも呼ばれるようになりますね。
でも、うまくいってるっていう感覚はなかったですよ。今は制度や評価の仕方が変わってきていますけど、当時は若い選手が車いすバスケを始めるってだけで喜んでもらえるような面があったので。僕が初めてジュニアの海外遠征のメンバー選考会に参加した時、長崎県からは3人参加していました。僕以外の2人はその帰り道にパスポートを用意するように連絡があったんですけど、僕だけその連絡がなかった。もう悔しくてしょうがなくて、先輩の家に泊まり込みさせてもらったりして、それから毎日練習しまくりました。中学時代はそういう苛立ちやむしゃくしゃした気持ちのほうが強かったですね。
当時、国内の強化合宿に参加していた同世代の選手たちは、今も代表で一緒にプレーすることもありますよね。
多いですね。僕の2つ上の世代が多くて、古澤(拓也)選手や川原(凛)選手、岩井(孝義)選手とかは当時から一緒にプレーしているので付き合いは長いです。リオパラリンピックが終わってから各大会で日本代表に選ばれて入ってきた選手が多いかもしれません。
リオにいたるまで僕が犠牲にしてきた
高校生活とか、一体なんだったんだろうと。
悔しさを通り越して、もういいやって。
ほとんどふてくされていただけなんですけど(笑)
代表と所属チームの異なる役割
分析するための 「冷めた」 視点
2016年のリオパラリンピックでは、鳥海選手は当時まだ現役高校生で、チーム最年少選手として大会に参加されましたね。あれから3年が経ち、現在は千葉県内で一人暮らしをしながら会社に勤め、練習は藤沢市を拠点にするパラ神奈川スポーツクラブ(以下、パラ神奈川)で行なっています。地元長崎を離れ、大きく環境を変えた理由はなんだったんでしょうか。
リオパラリンピックに出たあと、すぐに東京パラリンピックに向けて照準を定めるタイミングで、もう車いすバスケをやめようかと考えていた時期がありました。リオに向けて合宿に参加して、帰ってきて練習して、その繰り返しの生活を僕としては100%がんばったつもりだったのに、いざ蓋を開けたら世界で9位。ぜんぜん通用しないじゃんって、挫折というか、大きな壁を目の当たりにしたような気持ちになっちゃって。もう車いすバスケをやめてまったく違う道に進もうかなと思って、卒業後に海外留学も考えていたのでパンフレットを集め始めたりしていて。
リオパラリンピックのあとで、そんなに追い詰められていたんですね。
どうにか親に説得され日本体育大学に進学することが決まり、そこから関東に引っ越しをするにあたって、いくつかチームを絞った中にパラ神奈川がありました。僕にとって大きかったのは、ジュニア時代から一緒にやってきている古澤選手がすでにチームにいたことです。比較的ベテラン選手が多いチームの中で、若手である古澤選手と2人で頑張っていきたいと思ったことと、ある程度自分に自由に役割が与えられていて、ゲームをつくったりコントロールできる立場を任せてもらえそうだったので、もう一度ここで車いすバスケに向き合ってみようかなって思えたんです。
鳥海選手の性格的には勝てない相手に対しても反骨心を抱くというか、その悔しさを糧にしてさらに成長してきた人生だったと思うのですが、パラリンピックで感じたのはそれ以上の埋まらない壁、大きな差だったということでしょうか。
どちらかというともっと感情的な部分で……勝てない、試合に出られない、うまくいかない、みたいな。リオにいたるまで僕が犠牲にしてきた高校生活とか、一体なんだったんだろうと。それなのにまったく僕が望んでいた結果じゃなかった。悔しさを通り越して、もういいやって。ほとんどふてくされていただけなんですけど(笑)。
それまで芽生えたことがなかった感情が生まれたリオパラリンピックを経て、20歳にしてすでに代表キャリアも5年を数えるわけですが、ここ最近は意識や心境に変化はありますか。
長く日本代表チームの中でも最年少で、勢いやアグレッシブささえあればチームにいることが許されていたというか。みんなに支えながら、それに感謝してワイワイ楽しくやってこられましたけど、逆にそれに甘えすぎていたなと。今は東京大会が1年後に控えている中で僕も新たに後輩ができたり、引き続き先輩に負けないようなアグレッシブさを見せなきゃいけなかったり、よりチームに貢献するために求められるものが増えてきたなと感じています。一番大きく変化したのは、たとえ僕が納得できるようなプレーでなくても、結果チームとして納得できるもの、チームにとっての貢献度が高いプレーっていうものを意識するようになったことでしょうか。
所属チームでの役割と日本代表チームでの役割の違いはどのように認識されていますか。
日本代表チームは全員のレベルが高く、わかりやすく言えば僕よりシュートのうまい選手がいれば、その選手にどうシュートを打ってもらうかってことを考えてプレーしますよね。基本的に僕は裏方的というか、活躍するべく選手を活躍させる、そういう役割を担っていると思っています。 それに対してクラブチームの中には上のレベルを目指している選手もいれば、遊びでやっている選手もいる。熱量がバラバラの中で成立しているのがクラブチームで、僕はそこでいかに自分の経験をチームに還元するかという役割。僕や古澤選手が点を決めなければならないし、ゲームをコントロールして、古澤選手の良さも活かさなければならない。そう考えると、クラブチームはより複数の役割を担わなきゃいけないけど、そのぶん代表では得られない楽しさやモチベーションもあるというふうに考えていますね。
そうした違いの中で、活動を両立させる難しさはありますか?
九州にいる頃に学んだことなんですけど、僕の考えの根本にあるのは勝つことよりも、大前提として楽しいってことです。だからクラブチームと日本代表チームとのレベルの違いで、難しさを感じるようなことはありません。トレーニングに関しては、個人練習でいくらでも補うことはできると思っています。
日本代表チームでは後輩たちが存在感を示し始めていると思いますが、そこで新たに受ける刺激や緊張感みたいなものはありますか。
赤石(竜我)選手なんかは僕と同じ持ち点で、役割的にも同じようなことを求められてる選手ですけど、彼が合宿のたびにうまくなっている姿を見ると少し焦りを感じたりもします。僕の居場所が彼の居場所になっていくような気持ちもありますけど、ライバルであると同時に、チームとして赤石選手のような存在はすごく心強くもあります。僕には僕なりのプレーがあって代表にいるわけで、僕には赤石選手にないプレーができる。そういうことを信じてやっているうちは、負の考えやマイナス思考は1ミリもないですね。そういう下の世代からの突き上げっていうのは初めての経験ですけど、すべてポジティブです。
鳥海選手のお話を聞いていると、弱冠20歳ながらすでに落ち着きと客観的な視点を持ち合わせているのは、長く継続的に代表に招集されそこでプレーし続けていることの証左でもあるのかなと感じます。
メンタルトレーニングをするときにそれまでの自分自身を振り返るんですけど、そこでよく「冷めてる」っていうフレーズが出てくるんです。他人からの評価というよりは、どちらかというと自己分析的に使う言葉で。意識的に感情を冷ましているわけじゃないんですけど、僕はある局面でチームが成功を収めるため、効率的にプレーするために、すごく冷静に思考を働かせることができるんです。一方で、僕がいいプレーをして周りのみんながワーっと盛り上がっている時でも、僕だけは「うーん」ってどこか冷めた状態の時がある。けっして悪い傾向ではないんでしょうけど、気持ちの上げ下げの面ではもう少し強化して取り組まないといけないなと思っています。
僕にとって、僕だけの目標じゃないってことが
なんでもトライできる原動力、
この競技にのめり込んでいられる理由にも
なっている
東京大会に向けて
その先にある海外挑戦への思い
先ほど、リオ大会のあとで気持ちが切れてしまったという話がありましたが、今は東京大会までの道のりを具体的にどうイメージされていますか。
関東に来てから気持ちの置きどころが難しく、結局は大学を退学し、今は車いすバスケだけに集中できる環境を自分なりに整えました。就職もして、今は東京に向かうための覚悟がしっかりと自分の中にある状態です。もちろん、東京大会のあとのことも具体的にイメージしています。それは海外リーグでプレーするということです。
そもそもは高校卒業後に海外留学への意思もあったということですけど、海外に出て行くことは鳥海さんにとってどういう位置づけですか。
うーん、もちろん行ってみないとわからないことばかりですけど……僕が海外に行きたいと思う理由は2つあって。ひとつは語学面での勉強であり、海外の文化をもっと知りたいという思い。もうひとつは単純に競技のこと、海外での車いすバスケの文化をもっと知りたいということですね。レベルの高い選手たちと一緒に毎週、試合ができるっていう生活を単純に過ごしてみたいんです。例えばドイツは車いすバスケのリーグがあって、競技には健常者も参加していて、国民的スポーツとして浸透しているから会場にはたくさんの人が集まります。選手としては、やはりそういう環境に身を置いてプレーしてみたいですよね。
理想とするリーグはありますか?
ドイツはもちろん、イタリア、スペイン……正直、どこのリーグでやるというよりはむしろ、誰と一緒にプレーしたいかってことを考えています。海外で活躍している僕と同世代の選手たちから、一緒にやろうって声をかけてもらってたりもするので、そういう選手たちと同じチームでプレーできたらいいなと思ってます。
代表チームについては、夏のワールドチャレンジカップが終わり、今は来月に開催されるアジア・オセアニアチャンピオンシップに向けた準備を行っている最中かと思います(取材は2019年10月下旬に行われた)。今のチーム状態をどう分析していますか?
代表チームに関しては単純で、自分たちが遂行したい理想とするバスケができれば、メダルをとるようなチームにも勝つことができるというのは、経験上みんながわかってきています。逆に言えば、それができなければ負けてしまう。
ここ1年は、自分たちがやりたいバスケをどう表現するか、その再現性を高めるというところにフォーカスしていて、そういう意味でもやはり勝負の1年になってきたなと感じています。再現性を高めるという点に関しては、チームだけでなく個々人の課題でもあるので、それをどう意識づけて、どう行動に移していくか、それが課題になってくるかなと。
最後に、金メダルを目指すと公言されている東京大会に向けて一言お願いします。
リオから東京大会に向けておよそ3年を過ごしてきましたけど、去年の世界選手権は9位、アジアパラも目標に到達できなかったという現実があります。そんな自分たちが金メダルと口にしていいのかどうかという悩みも正直ありますけど、選手それぞれが口にすることで決意を固めることにもなるし、本気で目指すんだということの確認にもなる。そういう意味でも、あえて言っていこうとメンバーとはお互いに話しています。 そして僕が車いすバスケを始めた時から、パラリンピックでメダルをとるということを目標にずっと練習してきて、やがて代表に入り、車いすバスケとともに生活を送っていく中で、いつしか僕の夢だけでなく、支えてくれる家族や応援してくれる友人、スポンサーさんもそうだしスタッフもそう、みんなの夢になってきているんだということをここ2、3年ですごく感じるんです。僕にとって、僕だけの目標じゃないってことがなんでもトライできる原動力、この競技にのめり込んでいられる理由にもなっているので、なんとしてもそれを実現できればと思っていますね。

鳥海 連志 | Renshi CHOKAI

1999年生まれ、長崎県西海市出身。生まれながら両手足に障がいがあり、すねの脛骨が欠損していた両下肢を3歳の時に切断。中学1年生の時に車いすバスケットボールを始めるとすぐに九州地方で頭角を現し、高校1年生の時に日本代表に初選出を果たす。2016年のリオパラリンピックには、当時現役高校生として最年少で車いすバスケットボール男子日本代表に選出。現在、所属はパラ神奈川スポーツクラブ、WOWOW。東京パラリンピックでエース候補と目されており、活躍が期待される。