「算数」から始めた陸上指導。22歳の日本人監督が南太平洋バヌアツで起こした奇跡

南太平洋に浮かぶ島国・バヌアツ。
新潟県とほぼ同じ面積に30万人ほどが暮らし、火山と豊かな自然に囲まれた国である。現在でも部族の集落があり、都市部を除けば今も自給自足に近い暮らしが残っている。時計を見ることはほとんどなく、時間に追われることもない。
陸上競技に取り組む選手たちもまた、日本とは大きく異なる感覚の中でスポーツをしている。老朽化した陸上施設、充分に揃わないスパイク、それに指導者不足。選手は身体能力に頼り、漫然と走るだけ。
そんな環境の中、バヌアツで22歳の時に陸上代表コーチを務めたのが、日本人の糸見涼介さんだ。
高校駅伝の強豪・伊賀白鳳高校で競技経験を積む毎日を送った。高校時代、ふと目にしたのは、海外青年協力隊の募集ポスター。陸上指導者を募集していた。その時「これは自分がやるべき」と直感したという。そこから糸見さんの道は決まった。
青年海外協力隊への参加を見据えて準備を重ねる日々。競技力を高め、参加要項である英語を学び、教員免許も取得する。
大学4年生の春、青年海外協力隊へ応募。書類審査と面接を経て合格し、派遣先として出会ったのがバヌアツだった。長距離の指導者として、バヌアツのナショナルチームのコーチという立場である。
しかし現地で直面したのは、日本とは大きく異なるスポーツに対する概念の違いだった。
距離も時間も伝わらない国
糸見さんが現地で最初に感じたのは、競技環境の厳しさ以上に、競技を理解するための「概念」の違いだった。
長距離競技では、距離やペースを理解することが不可欠だ。だがバヌアツでは、その感覚が選手の中に十分に共有されていなかった。
「10キロがどれくらいなのか、頭の中でイメージできない選手が多かったんです」
その結果、レースでは最初から全力で走ってしまう。ペース配分という概念がないため、途中で大きく失速してしまうのだ。100メートルや400メートルならゴールが見えるため速い選手も多い。
しかし10キロやハーフマラソンのようにゴールの見えない距離を走る競技になると、急に結果が出なくなる。身体能力よりも、数字の理解が競技力向上の壁になっていた。そこで糸見さんが始めたのが、「算数」からの指導だった。
まずは距離感。1キロとはどれくらいなのか。次にペース。1キロ4分とはどんなスピードなのか。さらにスピードの強弱。全力なのか、80%なのか。
「言葉で説明しても最初は伝わらないので、一緒に走りました。『これが3分半のペースだよ』『これが8割くらいのスピードだよ』と、体で覚えてもらってから数字で理解してもらいました」
意外に難しかったのが「半」という概念だった。トラックは400メートル。1000メートルは2周半だ。ところがこの「半」が理解しにくく、選手は2周半ではなく3周走ってしまう。距離を数字で捉える感覚が日常生活にあまりないためだ。
そしてもう一つ、大きな壁があった。「時間」の概念である。
街に時計がほとんどなく、時間通りに行動する文化が社会に根付いていない。練習を「午後4時開始」と伝えても、午前10時に来る選手もいれば午後3時に来る選手もいる。そもそも来ないこともある。
長距離競技ではこれは致命的だ。試合では、召集時間やウォーミングアップのタイミングなど、時間に合わせて動く必要がある。そこで糸見さんは、4時になったら必ず練習を始めるというルールを徹底した。遅れてきた選手は途中から参加するしかない。
この取り組みを半年ほど続けると、少しずつ変化が生まれた。
「6か月くらい経つと、8〜9割の選手が時間通りに来るようになりました」
数字の理解も、時間の感覚も、競技力に直結する。日本では当たり前だと思っていたことが、別の社会では当たり前ではない。その違いを一つずつ埋めていくことが、指導の第一歩だった。
裸足の優勝、部族の涙
バヌアツでの指導の中で、糸見さんの人生観を大きく変えた出来事がある。指導していた女子選手が、南太平洋の総合競技大会「パシフィックゲームズ」のハーフマラソン競技で優勝したことだ。
その選手は部族の村の出身で、それまで靴を履いた経験がほとんどなかった。シューズを履く練習から始めたものの、最後までうまく履きこなせず、本番は裸足で走った。そしてそのまま優勝してしまった。
だが、それ以上に印象的だったのはその後だった。
その部落から国を代表して活躍する選手が出るのは初めてだったため、糸見さんは村に招待され、1週間自給自足の生活をともにすることになった。朝日とともに起き、畑仕事をし、日が沈めば仕事を終える。人類がこの地域に定住してからほとんど変わっていないような生活がそこにはあった。
「僕はこの村に訪れたほぼ初めての外国人だったのですが、国際大会で結果を残したことがとても嬉しかったようで、好意的に受け入れてくれて。最後に別れるときは、僕も含めて村の人たちもみんな涙でした」
スポーツとは無縁だったはずの社会が、一人の選手の活躍をきっかけに誇りと喜びを共有する。そして、その背景にいる指導者としての糸見さんに最大限の感謝を伝える。
「スポーツは国境を越える、ってよく言いますけど、あのとき僕は、文明をも越えてしまうことを体感できました」
言葉が完全に通じなくても、一緒に走り、喜びを分かち合うことで信頼関係が生まれる。スポーツは、言語や文明をも超えて感動を分かち合うことができることを、糸見さんは身をもって感じた瞬間だ。
もう一人、糸見さんにとって忘れられない選手がいる。耳が聞こえない中距離ランナーだった。
言葉でのコミュニケーションは簡単ではなく、最初は意思疎通に苦労したという。それでも糸見さんは、その選手と一緒に走り続けた。練習をともにし、走り終わったあとにはハイタッチを交わす。言葉がなくても、身体を通じたやり取りの中で少しずつ信頼関係が生まれていった。
すると次第に、走れる距離が伸びていった。タイムも少しずつ向上する。
「一緒に走って、できたことを認めていく。その積み重ねの中で、自信が生まれていったんだと思います」
やがてその選手は、チームの中でも積極的にほかの選手を引っ張るようになった。そして練習を積み重ね、デフアスリートながら健常者と同じ代表チームにも選ばれるまでに成長した。
言葉が通じなくても、人は分かり合える。糸見さんは、スポーツがもつ非言語コミュニケーションの大きな力を、この経験から実感したと話す。
バヌアツでの経験が日本、そして世界を変える
糸見さんは、バヌアツで陸上大会の運営改善にも取り組んだ。当時のバヌアツでは大会の進行が整っておらず、時間が過ぎて競技が途中で終わってしまうことも珍しくなかった。そこで大会の進行を整理し、選手たちにも運営に参加してもらい、役割を持たせた。
「選手には、大会に出場するだけじゃなく、支える経験にも価値があると思ったんです」
さらに、競技を支えるスタッフには、ボランティアではなく報酬を支払った。報酬を得ることで、向き合い方は自然と変化する。
娯楽の少ないバヌアツ。大会が成功すると会場には大きな歓声が生まれ、話題が話題を呼び競技人口も増えていった。この経験は、日本での新たな取り組みにもつながっている。
糸見さんは現在、一般社団法人Tamari Hubを設立し、スポーツをハブとして地域の人々が集まり、交流やコミュニケーションが生まれる「場づくり」にも力を注いでいる。地元・三重県桑名市で部活動の地域展開に関わり、「支える部活動」という仕組みを提案。大会運営や広報、イベント企画などを担う部活動をつくることで、プレーが得意でない子どもや障がいのある子どもでもスポーツに関われる場をつくろうという試みだ。スポーツ以外の専門性を持つ地域住民にも伴走してもらいつつ部活動の運営に参画してもらうこの取り組みは「くわなモデル」として他の地域にも広げられればと希望を語る。
また、糸見さんは国連(UNDP)にて平和構築支援に携わる一方、IOCヤングリーダーとしてバヌアツの活火山でのトレイルランニングイベント「ヤスールボルケーノラン」を企画。スポーツイベントを通じた地域経済活性や観光促進など国際協力にも取り組んでいる。本イベントは日本の官民連携によるスポーツ国際貢献事業であるスポーツ・フォー・トゥモロー の支援を受け実施され、2026年2月に開催されたスポーツ・フォー・トゥモローカンファレンスでも経験を発信している。
中学3年の秋に駅伝を始めた一人の少年が、南太平洋の島国で代表監督となり、いまはアフリカで平和構築の現場にも関わっている。その歩み自体が、スポーツが人の可能性を広げることの証明でもある。裸足で走る選手に、最初に教えたのは「算数」だった。だが、その先に広がっていたのは競技力だけではない。
スポーツは人をつなぎ、地域を動かし、社会を少しずつ変えていく。南太平洋の小さな島国で始まった挑戦は、いま、世界と日本を結びながら、静かに広がり続けている。
PROFILE 糸見涼介
1996年生まれ。三重県出身。高校駅伝の強豪・伊賀白鳳高校駅伝部で競技経験を積む。JICA海外協力隊として南太平洋のバヌアツに派遣され、陸上代表監督を務める。IOC Young Leader(2023-2026)。トレイルランニングイベント「ヤスールボルケーノラン」実行委員会メンバー。一般社団法人Tamari Hub代表理事。
text by Akihiro Ichiyanagi(Parasapo Lab)
写真提供:糸見涼介