【パイオニアに聞く】車いすマラソン発展の礎を築いた陸上競技・山本行文の探求心

2021.09.05.SUN 公開

東京2020大会の開催が決まった2013年以降、パラアスリートを取り巻く環境は大きく変わった。では、世界への道を切り開いてきた日本の先人たちは、いかにして世界と戦ってきたのか。日本の車いすマラソン界をけん引してきた山本行文さんに聞いた。

ニューヨーク・アイレスベリー、ソウル、バルセロナと3大会連続でパラリンピックに出場。世界最大級の車いすマラソンレースである大分国際車いすマラソンも国内7連覇と、日本の車いすマラソン界をけん引してきた。試行錯誤しながら山本が開拓してきた道とは――?

レーサーも練習法も一から開発

子どものころからスポーツが得意。陸上や柔道、卓球、器械体操に親しみ、中学・高校ではバレーボール部で活躍したという山本行文は、高校卒業と同時に地元・熊本で自衛隊に入隊した。しかし、1977年22歳のとき、事故で脊髄を損傷して両下肢機能全廃となる。車いすとなり、リハビリを兼ねて車いすバスケットボールをプレーしていた山本が、車いすマラソンに出会うのは、1981年のことだ。

山本行文(以下、山本) 大分にある自衛隊別府病院に入院中の1981年、第1回大分国際車いすマラソンが行われました。地元なので、大きな話題になっていましたよ。僕はテレビで観戦したのですが、僕と同じ境遇の人たちが競い合っている姿を見て、励まされました。その中に一緒に車いすバスケをしていた選手がいて、大分県で1位になったんです。これには大いに刺激を受けました。よし、僕だって、とがぜんやる気になり、翌年の第2回大会に挑もうと決めました。

1992年の大分国際車いすマラソン(写真は本人提供)

その大会で日本の選手たちが使っていた車いすは、日常用やバスケットボール用を少し改良したタイプだったという。ところが、海外の選手たちは、すでに車いすマラソン専用の車いすを使用していた。そのスピード感と見た目のカッコよさに引かれるとともに、自分も速く走りたいと思った山本は、地元の企業と協力し、日常用車いすをアレンジしたオリジナルのマラソン専用車を作る。

山本 全体をステンレス製にして重量を軽くするのと同時に、ハンドリムを小さくしてギア比を応用しました。さらに車体が安定するよう前輪の位置を前の方に出しました。それでもバランスがとりづらく、スピードが出ると前輪(キャスター)がカタカタカタって音がして、車体がぶれていましたね。

同時に、練習方法も試行錯誤しながら編み出していった。

環境を言い訳にせず、ベストを目指して工夫と努力を重ねた

山本 平日は病院の外には出られなかったため、病院の建物の周りをぐるぐると回ることにしました。ところが、別府は坂の町。距離はせいぜい700mほどだったのですが、その中にもアップダウンや曲がり角がいっぱいあり、どう考えてもマラソンの練習には不向きなルートでした。しかも、競技用車いすが完成したのは第2回大会の直前だったので、練習は日常用を使うしかありませんでした。だからといって、一度やると決めた挑戦をあきらめるわけにはいきません。この練習環境でできることは何か。考えた結果、まずは持久力をつけようと、車いすで古タイヤを引っ張って走ることにしました。

何周も何周も日常車で古タイヤを引くうちに、手が豆だらけになったので、テーピングを巻き手袋を着け、さらにその上からテーピングを巻いて、引っ張っているタイヤも摩擦ですり減り、4回取り替えました。

タイヤ引きのトレーニング(写真は本人提供)

車いすルームランナーを発明

練習の末、出場した第2回大会では、国内2位、総合9位。山本いわく、海外選手との差は歴然としていたという。その差がどこにあるかを探るため、海外の選手たちと情報交換をしたところ、重要な気づきを得る。

山本 海外では、ちょっと郊外に行けば、幅が広く交通量も少ない道路があり、大会と似たような環境で実戦練習が積めるとのことでした。坂道だらけで道路幅が狭く、交通量も多い別府で練習していては、海外の選手たちに追いつけないばかりか、日本一にもなれない。そう確信しました。でも、環境は変えられません。では、どうしたらいいのだろうか。そう考えて、ふと浮かんだのが、ランニング用のルームランナーです。そうか、車いす用のルームランナーを作ればいいんだ、とひらめいたときは、うれしかったですね。天候や道路事情などに左右されず、いつでも好きなだけ練習できるわけですから。

しかし、当然ながら、市販品はないし、自分では作れません。どうしたものかと思ったのですが、幸いなことに、私には鉄工所を営んでいる友人がいました。早速、その友人に相談したところ、僕のイメージを形にしてくれました。それが第1号の車いす用ルームランナーです。

国内第一号の車いすルームランナー(写真は本人提供)

初めて使ったルームランナーの漕ぎ心地は、坂道を上り続けるかのように重く、15分も続かなかったという。しかし、練習で少しずつ時間を伸ばし、最終的には2時間漕げるようになった。

山本 その頃は病院で働いていたので、勤務終了後、すぐに練習できるようにと、病院の廊下にルームランナー(以下、ローラー)を置かせてもらっていました。いつでも練習できたのはよかったけど、同じ場所で風景が変わらない中、一人でひたすらローラーを回すのは、きつかったです。そのため、近くにラジカセを置き、大好きだった山口百恵や、ローラーとリズムが合う音楽を探してきては流していました。時々、患者さんが見に来てくれたり、友だちが水分入りのボトルを持ってきて、ストローで飲ませてくれたりして。あれには本当に癒されましたし、ありがたかったです。

残されたものを最大限に生かす

こうして鍛え上げた山本は、第3回大会で国内一位。日本代表となり、パラリンピックに初出場する。1984年のニューヨーク・アイレスベリー大会だ。この大会は、アメリカのニューヨークと、パラリンピック発祥の地でもあるイギリスのストーク・マンデビルの2ヵ所で分離開催され、車いすマラソンは後者で行われた。

山本 僕にとって、初の海外試合だったこともあり、すごく刺激的でした。中でも僕の目を引いたのが、フルマラソンのT51クラスの選手です。頸椎損傷で握力がないとのことだったのですが、その状態でどうやって車いすを漕ぐのか、ハンドリムを握って漕いでいた当時の僕には不思議で仕方ありませんでした。しかし、彼らはバックハンドグリップという新たな走法を開発して競技に挑んでいたんです。そんな漕ぎ方があるのかと、感心しました。

またある時、僕が水場で汗をかいた体を手入れしていたときに、T51クラスの選手がやってきました。どうするのだろうと思って見ていたところ、両手で蛇口を挟んで水を出し、タオルを水で濡らした後、そのタオルを洗面台に叩きつけることで水を切り、巧みに体を拭いていました。その様子を見て、僕はすごく感動しました。まさに、グットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」との言葉そのものだったからです。グットマン博士は、ストーク・マンデビル病院で、パラリンピックの前身なる競技大会を始めた人。その地で、その言葉そのものの光景に出会えた。そのことに、奮い立つような感覚を覚えました。

北京パラリンピックでは日本選手団の副団長を務めた photo by X-1

さらに山本は、勝負に勝つには駆け引きが必要であることも体感。海外だからこそ体験できることがあると感じた山本は、競技に打ち込める環境を求めて転職。国内外で競技を続けながら、レーサー(競技用車いす)やルームランナーの開発にも携わり、国内メーカーの技術開発力向上に貢献してきた。山本が開発したルームランナーは、今や多様な競技の車いすアスリートが使う定番のトレーニング器具となっている。さらに、若手の指導を通じて、国内選手の競技力向上にも尽力し続けている。世界のトップを知る山本は、東京2020パラリンピックを迎えた今、思いを新たにしていると語る。

山本 東京パラリンピック招致を機に、パラスポーツでもずいぶんとプロ化が進みました。もちろん、それもいいのですが、今、僕が目指しているのは、プロの選手を増やすことではありません。それ以上に大切なのは、東京パラリンピックを観て何かやってみたいと思ってくれた人を、実際にパラスポーツができる環境につなげることだと感じています。

リハビリとか健康づくりって、一人でやっても面白くないんですよ。でも、そこにスポーツをからめることで、楽しく、続けやすくなる。すると、できることが増えて気持ちが上向き、仲間が増え、行動範囲も広がるんです。パラスポーツにはそういう力があるからこそ、もっと多くの方にパラスポーツとつながる機会が増えてほしい。もちろん、車いすマラソンじゃなくていいんです。その人に合ったパラスポーツに出会えることが大切ですし、そのための仕組みづくりにチャレンジしていきたい。今はそんなことを考えながら、あちこちでサポートをさせていただいています。

豆を何度もつぶして硬くなった手は、日本の車いすマラソンの歴史そのもの

東京大会をきっかけに盛り上がるパラスポーツ熱。冷めないうちに次につなげ、新たなフィールドを開拓しようという山本の挑戦は、日本のパラスポーツ界にとって、新たな礎となるに違いない。

text by TEAM A
photo by Haruo Wanibe

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