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Sports /競技を知る
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「どこで花を咲かせるか」両親の教えを胸に世界を圧倒する、パラバドミントン河合紫乃の競技人生

国際大会で圧倒的な強さを誇るパラバドミントンの河合紫乃(SL3)。現在の強さには理由がある。その背景を語ってもらった。
河合 紫乃(かわい・しの)|パラバドミントン
1992年富山県生まれ。法政大学卒業後、S/Jリーグ選手として活動。ケガによる手術の後遺症で車いす生活に。パラフェンシングで東京2020パラリンピック、パリ2024パラリンピックを目指すも出場を逃す。その後、壊死した左脚を切断し、パラバドミントンに転向。フェイントを武器に瞬く間に世界ランキング1位に。愛知・名古屋2026アジアパラ競技大会、そしてロサンゼルス2028パラリンピックで金メダルを目指す。セイリン所属。
少年団のイベントに魅かれて始めたバドミントン
祖父は卓球、両親はテニスというスポーツ一家で育ちました。私も体を動かすのが好きで、小学校入学時点で水泳とドッジボールをしていたと記憶しています。また、両親と兄と一緒に毎日ジョギングをして、マラソン大会に出たりもしていました。
小学校の少年団でバドミントンを始めたのは、小学3年生のときです。夏はバーベキュー、冬はスキー合宿があり、そこに参加したいというよこしまな理由からです。ところが、始めてすぐにバドミントン自体を楽しいと感じるようになりました。というのも、最初に習った「シャトルすくい」にみんなが苦戦する中、私はすぐにできてしまって。教えてもらったことや見たことを再現するのが得意だったのです。どんなことでも、できるようになるのは楽しいもの。自分でもわかるほどぐんぐん上達し、夢中になっていきました。一年後にはあちこちで勝てるようになり、富山県のバドミントン大会では4年生から6年生まで3年連続で優勝しました。
photo provided by kawai herself
「高校で花を咲かせたい」との思いが実り、高校で全国5位に
中学でも相変わらず富山県では優勝できていたのですが、その一つ上の北信越大会となると、なかなか勝ち切ることができませんでした。負けると悔しくて、自宅裏にある牧場で牛を見ながらよく泣いたものです。ただ、両親が常々、「どこで花を咲かせるかが大切」と言ってくれていて、私は高校で、と思い定めていました。そのため、泣いた後はすぐに頭を切り替えられました。
高校は、バドミントンの強豪校である富山商業高校に進学。1年のうち休みは1月1日だけと非常にハードでしたが、両親のサポートを受けながら頑張ったかいがあり、高校2年時に全日本ジュニアダブルスで5位になりました。当時、世代最強と謳われていた松友美佐紀選手(リオデジャネイロ2016オリンピック女子ダブルス金メダル)と対戦しての結果でしたし、自分なりに手ごたえもあったため、自信につながりました。
photo provided by kawai herself
股関節の痛みを抱えながら臨んだインカレで団体優勝
大学は、全国大会優勝者を多数輩出している法政大学に進学したのですが、入学してすぐの5月にまず右膝が、次に右の股関節も痛み始めました。股関節の安定性と柔軟性を高めて可動域を広げたほうがいいと言われたため、トレーニングに取り組んだところ、股関節が損傷。そこからリハビリの日々が始まりましたが、結局治らず、医師からの勧めもあって、2年生の2月ごろ手術に踏み切りました。診断は「股関節唇損傷(こかんせつしんそんしょう)」とのことでした。
これで良くなるかと思いきや、今度は手術前とは異なる痛みや違和感に悩まされるようになりました。とはいえ、大学は4年間しかありません。我慢しながらやり切るしかないと、3年の秋ごろに無理やり復帰。痛みを抱えながらも4年時にインカレ個人戦に出場し、団体でも優勝を体験。その際は本当に感動しました。ただ、これ以上競技を続けるのは無理だろうと、大学卒業を機に競技を引退するつもりでいました。ところが、意図せず実業団チームでプレーを続けることになったのです。
photo provided by kawai herself
実業団入りするも車いす生活に。再起のきっかけはスポーツへの情熱
社会人での所属先は、国内トップリーグ「S/Jリーグ」の北國銀行(石川県)でした。手術後も痛みがあった右股関節をかばっていたのか、次第に左股関節も痛むようになっていたのですが、社会人2年目の頃、ついに歩けなくなり、両脚の股関節を手術することになりました。手術後、左股関節がさらにおかしくなったため、また手術。再発してまた手術。最終的に計3回手術した左脚は動かなくなり、車いす生活になりました。
入院中からメンタルが落ち込んでいたのですが、足が痛むのもメンタルのせいだと言われたのは心外でした。退院後、紹介状を持ってあちこちの病院に行ったのですが、どこでも最終的には精神科に回されて精神安定剤を処方されて。ずっと意識がぼんやりしていて、自分が今、生きているのか死んでいるのかさえわからないという状態にまで陥りました。あのままではどうなっていたか、わからなかったと思います。
どん底から再起するきっかけとなったのが、スポーツです。先の入院中、お見舞いに来てくれた大学の1学年下の後輩が「一緒に東京オリンピック・パラリンピックに出ようよ」って言ってくれたことがあったのですが、その後輩が国際大会で優勝した姿を偶然、テレビで観て心が動きました。私もインカレ優勝時に感じたあの感動をもう一度、味わいたい。そのためにも、がんばってスポーツをしようと思えたのです。
勝ちたい気持ちを呼び戻してくれたパラフェンシング
やるからには、本気でパラリンピックを目指せる競技に取り組みたい。そう考えて選んだのがパラフェンシングです。車いすでできるし、対人競技でかけ引きもあるところはバドミントンに通じるところがあるのではと思ったのです。ところが、実際にやってみると、バドミントンより思考もプレーもスピードが求められる競技だなと思いました。それに、剣が自分の体に当たるとものすごく痛いんです。実際、肋骨に何回かヒビが入りました。ほとんど格闘技のようなものです。
photo provided by kawai herself
東京パラリンピックに向けてはエペとフルーレの2種目に、パリパラリンピックに向けてはサーブルという種目に取り組みましたが、どちらも出場はかないませんでした。それでも、勝ちたいという気持ちをもう一度思い出させてくれたパラフェンシングには感謝しています。
photo provided by kawai herself
「まだできるんだ」とバドミントンに“復帰”
実はパリパラリンピックの前年の2023年5月ごろに、「またバドミントンをしたい」という気持ちが芽生え始めていました。きっかけは、元バドミントン日本代表選手の友人と偶然、ナショナルトレーニングセンターで再会し、「もう一回やってみない?」と誘われたことです。無理だと思ったものの、試しに車いすでバドミントンをしてみたら驚くことに30分で感覚が戻りました。「私、まだできるんだ」と思いましたし、「車いすフェンシングをやり切ってからパラバドミントンに転向しよう」と気持ちが変わっていきました。
2024年6月に左脚の大腿を切断。股関節は残しましたが麻痺して動かないため、通常は股関節がない人が使う骨盤帯付きの義足を使っています。右脚もずっと使っていなかったので細かったのですが、徐々に筋肉がついてきて、現役時代の太さに戻りつつあります。プレーの感覚も現役時代に近づきつつありますが、もちろん全く同じというわけにはいきません。それでも、義足の選手は勝てないと言われているSL3というカテゴリで、現役時代に身につけたプレーを武器に義足でも勝てることを証明し続けます。
photo by Hiroaki Yoda
国際大会の舞台で圧倒的な強さを見せつけている河合。アジアパラ、そしてロスパラリンピックに向けて視界は良好だ。どんな試合を見せてくれるか、これからも目が離せない。
text by TEAM A
key visual by Hiroaki Yoda