ベトナムでなぜ日本式スイミングが人気なのか? 水難事故が多い現地の水泳事情

日本の公立小学校の屋外プール設置率は、少子化や維持費の問題などから減少傾向にあるものの、約87%(2021年時点)。そのため、日本の子どもたちは基本的な泳ぎ方を身につけることができる。しかし、世界的に見るとそれは決して当たり前のことではなく、ベトナムでは泳げずに水難事故で命を落とす子どもが少なくない。そんな子どもたちの命を日本式水泳で守ろうとしている人たちがいると聞き、お話を伺った。
はじまりは「泳げない子をなくそうプロジェクト」
「正確な統計は取られていないようですが、ベトナムでは年間で2000人ほどの方が水難事故で亡くなっているという報告もあるそうです。地方の水難事故は細かく集計できていないので、もっと多いかもしれません」
そう教えてくれたのはサギヌマスイミングクラブを運営する株式会社エスアンドエフのベトナム現地法人S AND F VIETNAM 代表・鮎澤貴孝さん。水難事故からベトナムの子どもたちの命を救おうと、同社は2019年に、ベトナムにローカル会社「FUJI SWIMMING CLUB」を設立。現地で日本式スイミングレッスンを行っていると言う。もともとは、サギヌマスイミングクラブにおける指導者不足を解消するため、海外に目を向けたのがきっかけだったそうだ。
「海外で現地の人を水泳コーチとして育成して日本に来ていただこうと考えていました。治安やインフラなどさまざまな環境を検討してベトナムがいいのではないかという話になったのですが、技能実習制度などで来日してもらうのは難しいということが分かり、その話は一旦保留になりました。しかし、現地でコーチ育成のための調査などをしているうちに、ベトナムでは水難事故により多くの子どもが命を落としていることが社会課題になっている事実を知り、まずはその解決が先ではないかと考えたんです」(鮎澤さん)
サギヌマスイミングクラブでは、2013年から日本で「泳げない子をなくそうプロジェクト~地域から泳げない子どもをゼロに!~」という取り組みを実施し、無料の水泳教室を行ってきた。そんな同クラブが水泳を教えることでベトナムの子どもたちの命を守ろうと動き出したのは自然の成り行きだったのかもしれない。
日本式スイミングレッスンとは?
ベトナム中部最大の都市ダナン市にある「FUJI SWIMMING CLUB」は日本式スイミングレッスンができるクラブとして徐々に認知度が高まり、現在は小学生を中心に4歳から大人まで、多くの人が通っているという。そもそも日本式スイミングレッスンとはどういうものなのだろうか。
「実は『これが日本式スイミングレッスン』という明確な基準はないんです。ただ、日本のスイミングクラブのほとんどが進級テスト制度を取り入れているのに対して、海外ではそれがありません。進級テストの内容はクラブによって異なりますが、何級ではこれをやって、できるようになったら次の級というふうに確実にステップアップしていけるのが特徴です」(鮎澤さん)
たとえば「FUJI SWIMMING CLUB」では水の安全について学ぶレベル1から、バタフライ・背泳ぎ・平泳ぎ・クロールのそれぞれを50mトライアルするレベル15までの15段階のプログラムを提供。1段階クリアするごとに賞状やワッペンをもらうことができる。
「ベトナム政府も水難事故が多いということは問題視していて、中学校に上がるときに泳げるという証明書を取得することを義務づけています。しかし、それをどこでもらうのか、どのレベルに達したら証明書を発行するのかといった基準が明確になっていません」(鮎澤さん)
こうしたことからベトナムでは個人で水泳を指導している人も多く、その人が個人の判断で「泳げた」と言って証明書を発行することもできてしまうのだそうだ。
「個人の指導者の中には『12回で泳げるようにします』と言っている人が多いんですが、もし12回通っても泳げなかった場合、保護者からクレームが来るわけです。そうなると、泳げるようになるまで無料でレッスンをしますと言わざるを得ない。しかし、それでは効率が悪いので、きちんと泳げなくても『もういいか』と、証明書を渡してしまうといったケースもあるようです」
そのため、ベトナムで水泳教室に通う子どもの多くが「泳ぎを覚えること」ではなく「証明書を取得すること」が目的になってしまい、水泳の基礎が身につかないことが、水難事故の原因のひとつになりかねないと考えられる。
指導者の養成からコツコツと
水泳教室に対する根本的な捉え方が違う中で、日本式水泳教室を行うことは最初は簡単ではなかったと鮎澤さんは6年前を振り返る。
「僕がベトナムに行った当初、通訳をしてくれていた現地の女性がいたのですが、彼女は水に顔をつけることすらできないかなづちでした。ところが僕の言葉を通訳するうちに、泳ぎ方ってこういうものなんだなと頭の中でイメージできるようになり、それを元に自己流で練習を続けたところ、25mを泳げるようになったそうです。その後、実家のある田舎に戻ったら、みんなから泳ぎを教えてくれと言われるようになったというんですね。そのレベルでも泳げない人からすると教えられるくらい上手と思われてしまう状況。まずはコーチを養成するところから始めなければと思いました」(鮎澤さん)
現在、「FUJI SWIMMING CLUB」で指導にあたるコーチのほとんどがベトナム人だが、全員がきちんとした研修を受け日本のスイミングクラブと同等のレベルに達している。またベトナムで水泳を習うのは「証明書をもらうため」というのが当たり前だったので、時間をかけてしっかりと基礎から技術を学ぶという考え方はほとんどなかった。そのため当初は保護者から「いつになったら証明書をもらえるのか」といったクレームもあったそうだ。
「それでも僕たちは基礎を大切にしているので、基礎ができなければ次のレベルには進めることはできません。テストに受からなかった場合は、コーチたちが子どもや保護者になぜダメだったのかをきちんとフィードバックして理解してもらい、また来月頑張りましょうという話をしています」(鮎澤さん)
こうした努力が実を結び、5年間で着実に水泳の基礎を学ぶことの大切さが現地に広まり、「FUJI SWIMMING CLUB」の会員数も増えているという。また、最近では近隣の保育園や幼稚園からレッスンを受けさせたいという依頼や、マンションが管理するプールでレッスンをしてもらえないかといった問い合わせもあるそうだ。株式会社エスアンドエフは、なぜそうまでして、ベトナムで水泳教室を続けるのだろうか。ベトナムに渡り、現地で指導にあたる深谷哲郎さんは次のように語ってくれた。
「ベトナムは、まだ発展の途上にある国ではあるんですが、物質的にはどんどん豊かになっています。今後はさらに心身の充実を求めていくようになるんじゃないでしょうか。そんな中、水泳だけでなく運動を日常に取り入れることによってどれだけ人生の幸せ、ウェルビーイングを高めていくのかということが重要で、そういうものに我々がどう貢献できるのかを考えています。水泳の良さのひとつは一生楽しめるスポーツであるということ。時間はかかるけれども、ベトナムの人々にしっかりとした水泳のスキルを身につけてもらうためのサポートをする。それによって皆さんに健康で楽しい人生を送ってもらいたいという思いで取り組んでいます」(深谷さん)
我々日本人が当たり前だと思っていた日本式のスイミングレッスンは、世界的に見れば珍しく、とてもよく出来た仕組みだった。単に泳ぎを教えるだけでなく、進級テスト制度にすることで、子どもたちのモチベーションを上げることができるからだ。実際、「FUJI SWIMMING CLUB」に通うベトナムの子どもたちも進級テストに合格して賞状を貰えることや、周囲の人に喜んでもらえること、褒めてもらえることが嬉しいと話しているそうだ。まだまだ時間はかかるかもしれないが、いつかオリンピックの水泳でベトナムの選手が金メダルを手にする場面を見られるかもしれない。
text by Kaori Hamanaka(Parasapo Lab)
写真提供:株式会社エスアンドエフ/FUJI SWIMMING CLUB