東大卒Jリーガーという驚異のキャリア。久木田紳吾は文武両道をどのように実現させたか

2025.06.18.WED 公開

サッカー少年の夢であるJリーガーになり、日本の最高学府・東京大学にも合格することは可能なのだろうか。
JFAの2023年度のサッカー選手登録者数のうち、女子とシニアを除く競技人口はおよそ73万人。うちプロであるJ1~J3の選手は約2000人で、その割合はなんと0.27%だ。一方で、1学年の生徒を100万人とすると、その中で東大に入るのはたった0.3%ほど。いずれもかなりハードルが高いことが伺えるが、この2つを実現した人がいるのをご存じだろうか。東大卒で初めてJリーガーになった久木田紳吾さんだ。勉強時間は?練習量は?どんな超人かと思い話を伺ったが、そこから見えたのは、ずば抜けた天才肌というよりも日々の努力をコツコツ積み重ねる姿だった。

学校の授業は人一倍意欲的に。それ以外に特別なことはしなかった

小学校時代、サッカークラブでプレイしていた久木田さん

熊本県出身の久木田さん。小学校、中学校は地元の公立校に通っていて、キックベースなど外に出て遊ぶのが好きなアウトドア派の少年だった。
そんな久木田少年の転機になったのは小学3年生の時。仲の良かった友達の誘いで地域のクラブチームに入ってサッカーを始め、のめりこんだ。自分がプレーするだけでなく、Jリーグの試合もテレビで夢中になりながら見ていたという。「当時、九州にはまだJリーグクラブはなく、好きだったストイコビッチ選手のいた名古屋グランパスを応援していましたね」と懐かしむ。

中学に進学後も小学校から入っていたクラブチームで引き続きプレー。学内の部活動には入らなかった。所属していたクラブは県内では強豪で、そこでの活躍が評価され、県の選抜チームにも選出された。その時のチームメートは何人もJリーグ入りを実現させたといい、レベルの高い環境に身を置いていたことが伺える。

それだけサッカーに打ち込む日々を送る中、勉強はどうしていたのだろうか。寝る間を惜しんでいたのかと思いきや、久木田さんは学校以外での勉強は宿題をするだけでそれほど特別な学習をしているわけではなかった。ただ、学校の授業には人一倍意欲的に参加していたという。

「先生の『これ分かる人いるか?』の問いかけに対しては必ず手を挙げるようにしていましたね」

中学校に入り、勉強の難易度が難しくなってからは、理解できないことがあると職員室に行って先生に教えてもらっていた。塾にも行かず、分からないことは学校で片付け、持ち帰らないという姿勢を貫いた。

「小学校中学校は風邪を引かずに皆勤でした。学校の授業を大切に取り組む姿勢を小、中、高と12年間続けたことでかなりの勉強量になっていたと思います」

学校で勉強し、帰宅後はサッカーに時間を充てるというこのスタンスが文武両道の実現を可能にしたようだ。

サッカーか勉強か15歳で迫られた決断。高校2年生で東大を志望校に

熊本高校時代の久木田さん

「サッカー強豪の進学校が(自分の通える場所に)欲しかったですね」
久木田さんの高校進学時の迷いが凝縮されている言葉だ。進路を決めるとき、進学校に行くのか、強豪校に行くのか、15歳で自分の将来の方向性を決めることを迫られた。

中学から高校に進学する際、成績が良かったので県内の進学校・県立熊本高校への進学は可能だった。一方で、大好きなサッカーではプロまでいけるのかというところで不安があった。「県選抜ではあったものの、スタメンになれていませんでした。全国レベルでなくても、少なくとも熊本に11人、自分よりも上手い人がいるんです。自分が本当にプロになれるのか迷いがあり、熊本高校に進学してサッカーを続けることにしました」

県選抜になるほどの実力者。熊本高校では1年生からレギュラーに定着した。同じく県選抜だった同期もいたため、充実した3年間ではあったが、どんなにがんばっても県大会はベスト8止まり。サッカー選手への道からは「離れまくっていた」。

勉強は中学までやっていたように、分からないことは学校で解決して家に持ち帰らないだけでなく、理系科目を中心に予習をして、授業で確認するという学習方法を始めた。「中学の時は5教科500点満点で450点ほど取っていましたが、熊本高校では最初の頃は、真ん中よりも下でした。でも、地元の進学校に入ると入学がゴールになって遊んじゃう子が結構いるんですよ。私はその点、コツコツやってきたおかげで受験勉強に時間をかけずに進学したタイプでした。なので、入学した段階で疲れているということもなく、その後も勉強を続けて、少しずつ順位を上げていきました。言ってしまえばウサギとカメのカメですね。受験勉強のためにがんばるウサギじゃなくて、休まずに授業を積み重ねるカメでした。その学習方法が自分には良かったのだと思います」

大学への進学は、熊本高校の生徒が行くケースの多かった九州大学薬学部や熊本大学医学部などを志望校にしていたが、高校2年生のときにあることがきっかけで志望校を東大にした。

「うちの高校はオープンキャンパスを生徒たちで見に行くツアーがあったのですが、担任から『東大を見てみないか?』と言われました。実際に行ってみて、赤門をくぐったり、安田講堂を見て『ここに行きたい』と思ったというよりは、初めて大都会の東京を見て『すごい』と感じたのが素直な感想でしたね。なので、東大に行きたいというより東京に行きたいという気持ちがまず先でした。その上で、まだ大学に進んで何を勉強したいのか漠然としていたのですが、調べるうちに教養科目を最初の2年で学んで専門を決められる東大のカリキュラムにも魅力を感じ、行きたいと思うようになりました」

部活は選手権を待たずに夏前に引退。それから入試まで1日9時間勉強をし続けたそうだが、大学受験の追い込み時期も塾には一切行かず全て独学だったという。

「滑り止めを受けていなかったので、落ちれば浪人でした。引退以降、死ぬ気でやっていましたから、これで落ちてまた1年というのは考えたくなかったです。今でも忘れませんが、二次試験の当日は精神的なプレッシャーでご飯もろくに食べられず、1科目目の試験が終った段階でようやくチョコを数粒食べることができるような状態でした。ただ、横にいた受験生はそんな僕の隣でギャグマンガを読んでいて、衝撃を受けましたね(笑)」

東大の入学式でJリーガーになろうと決意。鳥肌が立った教授の言葉とは

東京大学のサッカー部「ア式蹴球部」でプレーする久木田さん(中央)

無事、現役で東大理科二類への合格を決めた久木田さん。ウキウキしながら向かった4月の入学式で卒業後の進路を決める大きな出来事があった。

「その年の入学式で講演したのは聴覚と視覚に障がいのある人で初めて東大の教授になった福島智さんでした。登壇した福島さんの『誰も挑戦したことのないことにこそ価値がある』という言葉を聞いて、鳥肌が立ちました。その時、自分はあんなにサッカーが好きだったのに、ある意味3年前に進学校に進学して逃げてしまったと思いました。もう一度、自分の好きなサッカーに向き合い、東大で初めてのプロサッカー選手になろう! そう考えると心の中で燃えるものがありました」

学外などサッカーを続ける選択肢は他にもあったが、部員たちが一生懸命だったことに惹かれ、東大のサッカー部を選択。
ただ、当時の東大サッカー部が所属していたリーグのカテゴリーは高くなく、プロのスカウトが見に来ることは期待できなかった。

「レベルが高いわけではなく、規模も大きくないところでした。自然とスカウトの目に止まるような環境ではなかったのですが、『プロになる』と公言していた私に、周りの学友はすごく協力的でした」

東大のサッカー部の繋がりからツテでプロクラブの練習に参加させてもらったり、OBの代理人を紹介してもらったりした。

「大学2年生の時、初めてプロクラブの練習に参加させてもらいました。それが当時J1を3連覇していた鹿島アントラーズだったんです。小笠原満男さん、岩政大樹さん、興梠慎三さん、内田篤人さん、高卒ルーキーの大迫勇也さんなどそうそうたる顔ぶれでしたね。今考えるとそんな場に参加させてもらえたのがすごいことだったなと思いますし、東大のサッカー部という肩書でかなり物珍しい目で見られましたね。『東大生って何して遊ぶの?』と選手から聞かれました(笑)」

代理人からは自分のプレーをDVDにしてクラブに送るようアドバイスをもらい、フォワードだった自分のゴールシーンを切り抜いて送り続け、サッカーと勉強を両立しながらJリーガーを目指し続けた。

「高校の時から理系科目が得意でした。暗記をするよりも一つのことを覚えて、考えながら応用していくことが好きだったんです。しかし、サッカーのピッチ上ではそういった勉強が活きませんでした。サッカーでは常にスペースと時間がない中でほぼ感覚的に適切なプレーを選択することが必要だったからです。レベルが上がった中で瞬時に適切な判断をすることには本当に苦労しました。ただ、じっくりとどうすれば試合に出られるのかを考えること自体には、これまでの勉強は活きたと思います。
プロで通用するために必要な事を考えたとき、アジリティ(加速・減速や方向転換速度)や体力には自信がありましたが、体の線が細かったんです。なので、講義の最中にプロテインシェーカーを飲んだり、毎日学内のトレーニングジムで筋トレしたりしてフィジカルを鍛えました。コツコツ継続して続けること、自分に足りないところを補うことというのは勉強で培ったと思います」

その後、大学4年生の夏にDVDを見た当時J2のファジアーノ岡山から練習参加の誘いがあった。当初は1週間で終わる予定だったが、クラブ側からの申し出で1週間延長になった。
「東京に戻り、ちょうど大学で練習を終えてグラウンドから部室に戻る時、ファジアーノ岡山からプロ契約と大学在学時からチームの選手として試合に出られる特別指定選手にしたいと携帯に連絡がありました。すぐに周りの部員にも伝えたところ、みんなからも祝福されて本当にうれしかったです」

評価されたのは、大学時代に考えながら強化したフィジカルと持ち前の献身さだったという。

工学部都市工学科で街づくりについて研究していた久木田さんは、卒業論文で入団するファジアーノ岡山とホームタウンの地方創生についてまとめた。地域の活性化はJリーグが掲げるテーマでもある。高校の進路を選ぶとき、どちらか二択を迫られたサッカーと学問。奇遇にもその二つがつながった瞬間だった。

子どもたちに伝えたい「熱中できること」を見つける大切さ

ファジアーノ岡山に所属していたころの久木田さん ©FAGIANO OKAYAMA

小さいころから憧れていたサッカー選手になることができた久木田さん。入団から2013年までは、主に途中出場で局面に影響を与えるスーパーサブと呼ばれる役回りで存在感を発揮した。2014年からはディフェンダーに転向して活躍。チームメイトとも充実した時間を過ごした。

「東大卒というのは鹿島アントラーズで練習した時と同じでやっぱり周りからは不思議な目で見られましたね。『東大生ってボール蹴る時も角度とか考えるの?』とか聞かれましたが、『そんなこと考えてたら蹴れないよ』って(笑)。最初こそ壁がありましたが、今でもやり取りするような多くの仲間ができました。印象に残っているのは岡山にいた2011シーズン、愛媛FC戦でキャリア初のゴールを決めた時です。他にも1試合の中でゴールとオウンゴールを1点ずつ決めてしまった試合も忘れられないですね」

プロ入り後、岡山のほか、松本山雅FC、現ザスパ群馬の3クラブでプレー。計10シーズンをプロとして過ごし、31歳になった年に引退を決めた。

「おそらくカテゴリーなどをあまり考えなければ、まだ現役を続けられていた可能性はあると思います。ただ、自分の成長曲線に限界を感じたので引退を決めました。サッカーが上手くなりたいと思って練習して、J1や日本代表を本気で目指していました。年齢が30を超え、若手選手の成長を感じたり、彼らが自分の代わりに試合に出たりしているのを見て、自分の限界を感じました。あまり後悔はなかったです」

引退を決めたものの、会社員は何をするのか分からず、大学の同級生などいろいろな人にとにかく話を聞いた。
そして、できる限り早く社内での業務ではなく、クライアントの担当を持って仕事をしたいと思い、ソフトウェア会社のSAPジャパンに就職。現在は法人営業を担当している。

「やりぬく力は今も活きていると思います。学力だったり、重圧に打ち勝つ力だったり、コミュニケーション能力だったり、Jリーガーと東大生を両方経験したからこそ培えた能力はたくさんあったと思います」

試合に出場するファジアーノ岡山時代の久木田さん ©FAGIANO OKAYAMA

まさに文武両道。異色のキャリア。そんな半生を振り返り、久木田さんは子どもたちに向け「自分が熱中できることを見つけてほしい」と語る。

「子どもの時に肝心なのは、その子が自発的にやりたいことに忠実になれることだと思います。一番良くないのはやらされてやることです。東大でも親から勉強をやらされてきた人はいましたが、経験上、そういった人は自分から何かに熱中して取り組む”熱量”が少し乏しい傾向にあると感じています。私の場合、『サッカーが上手くなりたい』『知識を深めたい、他の人に負けたくない』と自分から思って頑張った結果、両立を実現していました。ただ、両立が重要というわけではなく、自分がやりたいと思ったことに力を注げることが重要なんです。両立はその結果でしかありません。子どもたちには自分の内なる好奇心や欲求を大事にしてほしいですね」


勉強をする中で身についた『ウィークポイントの補強を考える方法』。それによって強化したフィジカルが、ファジアーノ岡山の評価ポイントになったことは彼の文武両道のキャリアの強みが活きた瞬間だったと言える。一度高校進学のタイミングで、サッカーか学業かの選択を迫られたが、熱中できることを追いかけ続けた先でその二つは帰結していった。一見不可能と思われるような東大とJリーガーという二刀流。その実現の大きな原動力は熱中する力だった。子どものうちに、自分から熱中できる何かを見つけられたら幸せだ。

text by Taro Nashida(Parasapo Lab)
写真提供:久木田紳吾、ファジアーノ岡山

『東大卒Jリーガーという驚異のキャリア。久木田紳吾は文武両道をどのように実現させたか』