"見えているふり"をやめた日。ブラインドスケーター大内龍成がスケートボードに乗り続ける理由
進行性の病により、視野の95%を失ったブラインドスケーター、大内龍成。かつては”見えているふり”をし、絶望の中にいた彼が、なぜ今もスケートボードに乗り続けるのか。一人の盲目スケーターとの出会いが、彼の人生に再び光を灯した。「降りなければ、ずっとやれる」――。新たな自分に向かって走り続けている彼の言葉から、挑戦し続けることの意味を探る。
大内さんのスケートボードの様子を動画で!
「やり尽くす」まで終わらない挑戦

――まずは自己紹介と、ご自身が普段から大切にしていることがあれば教えてください。
大内龍成(以下、大内): 大内龍成です。福島県郡山市出身で、視覚障がいがあります。普段は鍼灸師として働きながら、ブラインドスケーターとして活動しています。今は、何か明確な実績を残すというより、「これ以上は無理だ、やりきった!」と自分も周りも納得できるくらい、とことんやり尽くすことを目標にしています。
――大内さんが抱えている進行性の目の病「網膜色素変性症」について教えていただけますか?
大内: 人間の目って例えるなら、映画館のスクリーンとプロジェクターのようなものなんです。レンズ(プロジェクター)から入った映像情報を網膜(スクリーン)に映して、脳で理解する仕組みなのですが、僕はそのスクリーンにあたる網膜が変性していく病気です。プロジェクターは映像を映そうとしているのに、受け取る側がどんどん認識できなくなっていきます。主な症状は、見える範囲が狭くなる視野欠損と、色の見え方が変わる色弱、それから夜盲症ですね。
――その中でも最も大きな症状はどれになりますか?
大内: 視野欠損ですね。遠くが見えない視力ではなく、見える範囲、つまり視野が消えていきます。これは進行性で、まだ治療法も見つかっていません。病院の先生からは、視野の95%以上が欠損していると言われています。だから、この病気とはうまく付き合っていくしかないのですが、主治医の先生には「君ほど人生開き直ってたら、障がいも関係ないよね。うちの患者も君みたいに開き直れたらいいのにな」なんて言われています(笑)。
光を失う恐怖と、スケートボードという希望

――小学1年生で病気を診断されたときのことは覚えていますか?
大内: 実は宣告された瞬間の記憶がないんですよ。まだ子どもだったので、最初は親だけが呼ばれて話を聞いたのかなと思います。だから僕が初めて聞いたのは、父とのお風呂の中だったみたいで。後から聞いた話だと、ショックのあまり泣き叫んで暴れていたらしいです。感情的になってパニックになっていたのでしょうね。両親も、その時の僕の様子を見て、とんでもないことを言ってしまったと後悔したそうです。
――そこから生活はどのように変わったのでしょうか?大内: よく旅行に連れていってもらえるようになりました。でもそれって、後から聞いたら「どうせそのうち目が見えなくなるから」って、僕自身が連れていってとお願いしていたみたいです。僕の認識では、ある日から急に旅行が増えたなくらいの感覚でしたけど、子どもながらに精神的に追い込まれていたのかなと思います。
――スケートボードとの出会いについて教えてください。
大内: 中学3年生の時、友達の家でやることがなくなって、何となく乗ってみたのが始まりです。そしたら、とにかく楽しくて。当時は今よりも見えていたので、「やれるな」という感覚もありました。もうそこからは理由なんてなくて、時間があれば乗りたい、その一心でしたね。
「まだ賞味期限切れじゃない」。運命を変えた出会い

――スケートボードに熱中するものの、視野が狭くなっていくことに、どのような葛藤がありましたか?
大内: 「プロになりたいけど、絶対なれないな」という思いがありました。やっぱり目の病気があるから、自分が追求したいレベルには到達できないのかな、自分はみんなより先に辞めなきゃいけないのかなと。そういう未知の不安や葛藤にすごく苛まれていました。
――その葛藤を乗り越えるきっかけは何だったのでしょうか?
大内: 同じ網膜色素変性症のスケーター、ダン・マンシーナとの出会いでしたね。プロになった地元の友達が彼の映像を見つけてきて、「お前もやろうぜ。これで言い訳できなくなったな。俺らは協力するって言ってるんだから、あとはお前次第だろ?」って言ってくれて。そこまで言ってくれるならやりたいと思いましたし、その時、「俺はまだ賞味期限切れじゃないんだ! むしろ降りるっていう選択肢を取らなければ、ずっとやれるじゃないか!」って気づかされて。そこからはもう、絶対に降りないと心に決めました。
「見えているふり」をしていた過去

――ご両親は当初、スケートボードに反対していたそうですね。
大内:病気の進行に影響するんじゃないかと心配していたからですね。でも自分はもともと飽きっぽい性格で、何かに夢中になることがなかったんです。でもスケートボードだけは違いました。親が買ってくれないから、スケーターの友達を増やして、ベアリング1個、ビス1本からパーツを集めて、自分で1台組み上げて滑っていました。それがバレて没収されても、親がいない間に見つけ出してまた滑って…を繰り返しているうちに、最終的に親が折れてくれました。「そのかわり安全にやれよ。あと自分の目のことはわかってるな!?」って。もちろん、それも全部覚悟の上でやりたかったので、押し切った形ですね。今ではすごく応援してくれています。
――高校時代、病状が悪化して「見えているふり」をしていた時期があったそうですね。
大内:今の僕は「やるのか? やらないのか?」の2択で考えるようにしているんですけど、当時は「やりたいけど、でも」って言い訳ばかりで、自分の気持ちに正直じゃなかった。だから自分に対してずっとイライラしていました。友達と一緒にいても「なんで自分だけ……」って思ったり、どれだけ練習しても周りの方が上手くなっていくのも辛くて、置いていかれる感じがすごくありました。できていた技ができなくなっていくのが、本当に悔しかったですね。
目指すのは”障がいのある人”と”健常者”が交わる未来

――その辛い時期を乗り越え、福島から首都圏へ移住した後、生活はどのように変わりましたか?
大内: 埼玉に来たのは進学のためで、何かを求めて来たわけではありませんでした。でも、たまたまスケートボードYouTuber「MDAskater」のチャンネルに出させてもらったことをきっかけに、色々なチャンスをいただけるようになりました。偶然に感じますけど、それも自分がスケートボードに乗り続けていたから偶然が必然になったのかなと。動き続けていると人生ってどんどん変わっていくんだなと実感できて、最近は面白いなって思っています。
――首都圏に移住してメディア露出も増えましたが、ご自身はどう考えていますか?
大内: もっともっと積極的にやっていきたいという気持ちと同時に、見られれば見られるほど身が引き締まる想いです。人を引っ張っていきたいなら、自分がそれなりの器にならないといけない。結局は自分との戦いだなと。でもまだまだ知られていないので、チャンスがあればとにかく前に出たい。今の僕に立ち止まっている余裕はないので、とにかく前へ。動きを止めたら、本当に動けなくなってしまいそうなので。
――その全てのきっかけはダン・マンシーナとの出会いにあると思いますが、彼からはどんな影響を受けましたか?
大内: 彼から受けた一番大きな影響は、シンプルに「お前もスケーターとして活動していいんだ」と、存在を肯定されたことです。「カッコいい!スゴい!」の前に、そう言われた気がして、それがすごく嬉しかった。彼がいなかったら、僕は今何もやっていなかったと思います。だから次は、僕が誰かにそういう影響を与えたい。岡山に同じ病気のアダチケイというブラインドスケーターがいるんですけど、僕が滑り続けることで、彼に刺激を与えられたらなと思っています。

――昔と今で、周囲からの「まなざし」は変わったと感じますか?
大内: スケートボードを知らない一般の方からも応援してもらえるようになったのは、すごく実感しています。それはやっぱり嬉しいですね。コミュニティのみんなが助けてくれるのはもちろんですが、例えば僕が転んで板が飛んでいった時、子どもたちがさっと拾ってきてくれることがあるんです。その純粋な姿を見た時に、子どものうちから障がいについて知ってもらうことって、すごく大事なんだと気づかされました。滑っている時も、日常生活でも、より良い共生社会に向けたこういう”気づき”を感じる機会が増えました。それは、一般の方のまなざしや接し方に変化が生まれている証拠だと思うので、すごく良い傾向だと感じています。
――今後は、他の障がいのあるスケーターたちと一緒に何かやっていきたいことはありますか?
大内: ブラインドスケーターだけじゃなく、足のないハンドスケーターや、耳が聞こえないデフスケーター、そういう人たちとただ交流するだけじゃなくて、一緒に何かコンテンツを作ってみたいですね。僕たちのやっていることって、見方によっては一種のアートとも言えるんじゃないか。そしてそれは人に勇気や感動を与えるエンターテインメントにもなり得ると思うんです。例えば、障がいを逆手にとったアートの展示をしながら、僕らのデモンストレーションを見せたり、健常者のミニコンテストも開催したり。重要なのは、障がい者だけの世界じゃなくて、健常者も混ざり合う「共生社会」につながるイベントにすることですね。
取材中、大内さんの言葉から溢れ出ていたのはスケートボードへの純粋な愛情だ。「降りなければ、ずっとやれる」。その言葉は、絶望を乗り越えた彼だからこそ重みを持つ。彼の滑りは単なるトリックだけではない。好きなことに人生を懸ける尊さと、どんな状況からでも希望を見出せる人間の強さの証明ではないだろうか。その姿は私たちに一歩踏み出す勇気を与えてくれるはずだ。
PROFILE 大内龍成(おおうち・りゅうせい)
アダプティブスケートボーダー・鍼灸師
2000年生まれ、福島県郡山市出身。進行性の目の病気「網膜色素変性症」により現在までに視界の95%以上を失っている。中学時代にスケートボードと出会うが、病状の進行とともに絶望し、”見えているふり”をする時期も経験。同じく病気のスケーター、ダン・マンシーナの存在に勇気を得て、「降りなければ、ずっとやれる」と本格的にブラインドスケーターとしての活動を再開。現在は鍼灸師として働く傍ら、研ぎ澄まされた感覚と独自のロジックを武器に挑戦を続け、2025年8月にスペインで開催された国際大会「オマリスキーニョ」では3位に入賞。自身の経験を通して「共生社会」の実現を目指している。
text & photo by Yoshio Yoshida(Parasapo Lab)






