ブラインドサッカーアジア選手権、激闘に秘められた3つの証言

ブラインドサッカーアジア選手権、激闘に秘められた3つの証言
2026.04.30.THU 公開

立地抜群のグランフロント大阪・うめきた広場で開催されていたブラインドフットボールのIBSAブラインドサッカー男子アジア選手権。21年ぶりのアジア制覇を目指した男子日本代表は決勝に進出したものの、強豪中国に0-1で敗れた。

大会得点王・平林が背負った「エースの責任」

「悔しさの象徴だなと思う」
大会通算6得点を挙げて得点王となった日本代表エースの平林太一は、クリスタル製の盾を握りしめながら悔しさを吐露した。

初戦のインド戦では、足にボールが吸い付くようなピッチ特有の感覚に苦しみ1得点にとどまったものの、続くオーストラリア戦でハットトリックを達成。準決勝のタイ戦でも2得点を挙げ、大一番に向けて最高の状態で勝ち上がっていた。

敗戦に涙を流す平林太一(写真右)

中国との決勝戦、前半を0-0で折り返したものの、後半の選手交代直後に守備のほころびから失点を喫する。その後、平林はセットプレーから再三ゴールを狙うが、中国の堅守を崩し切れない。残り2分、平林が相手GKと1対1になる決定機が訪れたが、シュートをジャストミートできず。試合後、平林は「決めきれなかったのは技術不足」と言葉少なに振り返った。

今大会の優勝国に与えられるロサンゼルス2028パラリンピックの出場権は中国が獲得。日本のパラリンピック切符は世界選手権へと持ち越しになった。

平林にとって、アジア選手権は2022年のコチ(インド)大会以来2度目の舞台だった。当時16歳。準決勝でタイにPK負けを喫した記憶は、今も強く心に刻まれているという。初代表だったあの日から、パリ2024パラリンピックを経て、今や日本の絶対的エースへ成長を遂げた。それだけに、開催国で「ニッポンコール」が鳴り響く中での敗戦は、残酷な結果だったに違いない。

誰よりも涙したこの大阪でのアジア選手権も、ロサンゼルスへと突き動かす大きな原動力になるはずだ。

「得点の数ではなく、チームがゴールを欲しているときに決められる選手になりたい」
かつてそう語っていた平林は、この悔しさを糧に、もう一回りも二回りもたくましくなってロサンゼルスへの道を突き進む。

新生オーストラリア代表が2032年に向けて初陣

もう一つのドラマもあった。日本が予選で対戦したオーストラリアの監督は、かつて日本代表のガイド(コーラー)としてアジア選手権や世界選手権を戦った日本人、藤井潤氏だ。

藤井氏は日本の育成年代などでコーチを務め、オーストラリア戦で得点を挙げた日本代表の後藤将起髙橋裕人を育て上げた人物でもある。2023年にシドニーへ移住した後、男子オーストラリア代表の監督に就任。現在は2032年のブリスベンパラリンピックに向けた強化に励んでいる。今大会の組み合わせ抽選会で日本と同じグループに入った際、思わずガッツポーズをしていた藤井氏。イランの不出場による影響もあり、代表監督としての初采配が日本戦という運命的な幕開けとなった。

試合後、インタビューに応じた藤井潤氏
photo by Asuka Senaga

日本の戦い方を熟知する同氏は、ダイヤモンド型の陣形で守備を固め、カウンターを狙う作戦を立てていた。しかし、ウォーミングアップ中にキャプテンが転倒し、脳震盪の疑いで先発回避を余儀なくされた。急遽3人で守備をすることになり、序盤から立て続けに失点を許し、終わってみれば0-10という大差がついた。

2022年のアジア選手権(当時は男女混合チームで出場)以来の公式戦となったオーストラリアは、候補選手約10人から選抜された5人とGKで来日。うち4人がブラインドサッカーの試合自体が初めてというフレッシュなチームだ。藤井氏は「練習してきた守備が通用した部分もあれば、自信を失う場面もあったが、確かな手応えも得られた」と振り返る。

試合終了後、日本の中川英治監督や魚住稿ハイパフォーマンスディレクターと熱い握手を交わした藤井氏は、「こうしたトップレベルの場で再会できたことが、本当に嬉しかった」と涙をこらえながら語った。かつて共にアジア王者を目指した仲間が、今は敵味方に分かれ、アジア最高峰の舞台で火花を散らす。それは、日本のブラインドサッカーが成熟期を迎え、その知見が世界へ広まっている証でもあった。

4度目の日本開催を支えた人たち

男子準優勝、女子優勝という結果で幕を閉じたうめきた広場でのアジア選手権。同会場では3年連続の大会開催となり、日本代表の背中を押す舞台裏には、もう一つの物語があった。

日本で開催されたパラリンピック予選の中でも、2016年リオ大会の出場権を争った「IBSAブラインドサッカーアジア選手権2015」は、象徴的な大会のひとつだ。入場無料が多いパラスポーツ界において、前年の世界選手権に続く「有料制の興行」に踏み切り、多くの観客を動員。その実績が評価され、ブラインドサッカーが日本で根を下ろす転換点となった。

しかし、時は流れ、日本ブラインドサッカー協会の中で当時を知るスタッフはわずか1割程度。毎日の業務に追われる中、自国開催の招致に対して「現場の負担」を危惧し、必ずしも積極的ではないスタッフも少なくなかったという。それでも、さまざまな規模の大会を運営してきた同協会内では、自然発生的に「次はアジア選手権をやろう」という機運が高まり、招致へと動き出した。

大会運営委員長の日本ブラインドサッカー協会・宮島大輔氏

スタッフたちの理解と共感を得るため、時には監督やサポーター、元日本代表選手らを招き、アジア選手権がいかに大きな意義を持つかを直接語ってもらう場も設けた。こうしたプロセスを経て大会は作られていったのである。

宮島氏が思い描いていた「パラリンピックの出場権を決めたこの場所で、ロサンゼルス大会のパブリックビューイングを行う」という青写真は、あと一歩のところで夢に散った。しかし、男子日本代表は今大会で受け取った大声援を原動力に、次なるステージで必ずや「パラ行き」の切符を掴み取る。その覚悟は、もう決まっている。

text by Asuka Senaga
photo by X-1

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『ブラインドサッカーアジア選手権、激闘に秘められた3つの証言』

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