日本財団パラリンピックサポートセンター
レオペッカ・タハティ
パラリンピックで4連覇中
100mの絶対王者

レオペッカ・タハティ選手

車いすアスリート

先天性脊髄障がい。8歳で車いすバスケットボールを始める。15歳のとき、ハーフマラソンに参加したことがきっかけで、本格的に陸上競技をスタート。パラリンピック初出場となった2004年アテネ大会で100mと200mで金メダルを獲得。100mでは4大会連続の金メダリスト。障がい別のクラスはT54。2007年5月から2011年7月の間、70以上の大会での無敗という驚異の強さを誇る。車いすバスケットボールでは、フィンランド国内の他、スペイン、ロシアチームでプレー。(2021.7)

 

鍛え上げられたしなやかな上半身が小刻みにうねり、レーサーをぐんぐんと加速させていく。そのスピードたるや、圧巻。ライバルたちを寄せつけない。

フィンランドの雄・レオペッカ・タハティは、パラリンピック4連覇中の絶対王者だ。

その強さはどこから来るのだろう。

「秘密もないし、魔法も使っていないよ(笑)。ただ、練習に熱心なだけ。日々の練習を積み重ねることがレースで勝てるという自信にもつながっているんだ。練習は決して裏切らないからね。もちろん、気弱になることもあるし、練習がうまくいかないこともある。そんなときは練習ノートを見返すんだ。例えば、今日は調子が悪いと思っても、3年前と比べたら実はそんなに悪くないってわかるからね」

©Getty Images Sport

根っからのアスリート

脊髄に障がいのある状態で生まれたタハティ。両親は2歳年上の姉と同じように彼を育てた。とにかくスポーツが好き。サッカーもアイスホッケーも近所で誰かが遊んでいれば一緒に混ざって遊ぶ子どもだった。遊びやテレビを通じてスポーツが常に身近にあった。

8歳のときに車いすバスケットボールを始め、11歳になると本格的に競技に打ち込むため、週1回ヨーロッパの強豪チームの練習に参加するようになる。チームの末っ子で体も小さく、高いゴールリンクにボールが届かず苦労した。だが、ここで得たことは身体の発育への影響はもちろんのこと、一人の人間として成長する過程でとても大きかったそうだ。

©Getty Images Sport

陸上競技との運命の出会いは15歳のとき。きっかけとなったのが、同齢で参加したハーフマラソンだ。タハティは当時のタイムを今でもはっきりと覚えていると言い、このときの経験が人生の転機になったことがうかがえる。

日常で使う車いすで好タイムを出したタハティに、「君にはポテンシャルがある」と車いすランナーたちが口々に言ったという。さらにそのうちの1人が古い競技用の車いすを譲ってくれると申し出たことで、その1週間後、生まれて初めて車いすレーサーに乗ることになった。

「まったく新しい経験だった。ゼロからのスタートだったけど、強い気持ちがあったから挫けることなく続けられたのかな」

当時のナショナルチームには、障がい者スポーツではやり投げの選手などはいたが、短距離走の選手は皆無。彼がトレーニングを始めた頃は国内に車いす陸上の情報は何もなく練習も独りぼっちだった。

「それでも、単純に楽しかった。四六時中練習をしていたいと思ったし、走り込むたびに大会に出て優勝したいという思いが湧いてきた。目標を設定して達成すると、また次の目標を設定する。そうやって一歩ずつ階段を上っていったんだ」

競い合うことがとにかく好きだ。「アスリートの中には、競争心がない人もいる。不思議でならない」と涼しい顔で話す。天性のアスリートであるタハティにとって、勝負で勝つことが次のレースへの原動力になっている。

世界記録は父が組み立てた レーサーで

©Getty Images Sport

2001年に国際大会の初舞台を踏むと、2002年にフィンランドパラリンピック委員会の紹介で現コーチであるユハ・フリンクに出会う。

以降、種目を短距離に絞り、国際大会で経験を積んだ。2003年からはフィジカルトレーニングを強化したことで、大会を追うごとにタイムを伸ばし、見事アテネ大会への切符を獲得。そして、初出場のパラリンピックでいきなり100mと200mで2冠を達成。タハティの人生に金メダルが舞い込んできた瞬間だった。

「国旗を担いでトラックを回ったんだけど、それがすごく気持ち良かった。それに、観客席では両親が涙を流して喜んでくれたんだ。本当に嬉しかった」

実はその父親こそ、チャンピオン誕生の影の功労者だった。

父は練習のサポートのほか、資金面の協力者探しにも奔走した。職業はガラス職人で、手先の器用さを活かし、材料を集めて自ら溶接。競技用車いすをタハティの体にぴったり合うよう仕上げた。

3度目のパラリンピック出場となった2012年のロンドン大会。100mの予選で、タハティは13秒63の世界新記録をたたき出す。そのときに乗っていたのは、最新の技術も特別な素材も使用していない、父親が組み立てたレーサーだった。 ちなみにこの記録は今もなお破られていない。

パラスポーツを有名にした“スター”

©Getty Images Sport

苗字であるタハティはフィンランド語で「星」の意味。その名の通り彼は“スター”になった。

彼が活躍するたびに、パラ陸上の大会がテレビ放送されるようになり、パラスポーツをヘッドラインに押し上げた。フィンランドではその年に活躍したスポーツ選手がアスリートオブザイヤーとして表彰されるが、2016年には障がい者アスリートとして初めてアスリートオブザイヤーの中の最高選手に選出されるという栄光を手にした。それは間違いなくタハティがフィンランドのスポーツの歴史を変えた瞬間だった。

「僕が競技を始めたとき、パラスポーツが職業になるとは想定できなかった。でも、今はヒーローにだってなれる」

日本のトヨタ自動車など5社と契約を結ぶタハティは、それ以外に国から競技費用として毎月約220万円を受け取っており、競技に集中できる環境が整っている。

一流選手に対する国の支援が手厚い一方、発掘は手薄で、タハティ自身も後に続く選手がいないことに思いを募らせる。「フィンランドは、かつてスキージャンプで名をはせた。でも、チャンピオンの衰退とともに斜陽になってしまった」と、危機感を抱いている。

もちろん憂いているだけではない。彼が考えているひとつが、いろいろなパラスポーツを体験するサマーキャンプ開催の構想だ。
「車で国内を回り、若い才能のあるパラアスリートを発掘できたらいいね。パラスポーツに関心のある若い人たちの力になれたらと思っているよ」

取材は2021年6月にオンラインで実施

また、2016年にコーチングの学位を取得し、すでに車いす陸上でコーチとして活動もスタートさせている。競技を終えた後の人生を見据え、2020年に姉と一緒にマーケティング会社も立ち上げた。

そんなタハティが東京パラリンピックで見据えるのは、言うまでもなく金メダルだ。「中国やタイの選手も力をつけてきていて油断はできない。でも、ライバルの調子が良い方が競争も白熱して楽しいよね」と声を弾ませる。

あくなき向上心を胸に、闘争心を燃やして走り続ける姿はまさに獅子そのもの 。チャンピオンとしての要素をすべて持ち合わせている“スター”は、5連覇のかかる東京大会で偉業を達成するはずだ。(2021.7)

interview by Reiko Shikama
key visual by Getty Images Sport,X-1

  • パラリンピック成績

    2004年

    アテネパラリンピック
    100m(T54)金メダル
    200m(T54)金メダル

    2008年

    北京パラリンピック
    100m(T54)金メダル
    200m(T54)銅メダル

    2012年

    ロンドンパラリンピック
    100m(T54)金メダル

    2016年

    リオパラリンピック
    100m(T54)金メダル

    最終更新日:2021.07.11

レオペッカ・タハティ 選手

レオペッカ・タハティ 選手Leo-PekkaTähti