サッカー元日本代表・坂井達弥さん、なぜタイでドリアン農家に? 異色のセカンドキャリアで活きる現役時代の「考える力」

サガン鳥栖やモンテディオ山形などで活躍し、アギーレ代表監督時代にはA代表にも選出された元サッカー選手の坂井達弥さん。2019年に日本のクラブを離れてタイのチームに移籍し、現地の人の温かさに惚れ込んで移住を決意。そして2024年、異国の地でひっそりと現役生活に幕を下ろした。
そんな坂井さんが今新しい道として取り組んでいるのはまさかのオーガニックドリアン栽培。「このおいしさを日本に届けたい」。大好きだったサッカーに区切りをつけ、歩みだしたタイでのドリアン農家への道。全く異なって見えるセカンドキャリアだが、現役時代を通じて培った「考える力」が生きているという。
ドリアンの知られざる魅力をもっと日本人に知ってもらいたい

突然だが、ドリアンと聞いて何を連想するだろうか。
「くさい!」というイメージが真っ先に思い浮かぶ人は多いだろう。
現在、ドリアン農家を目指して日々タイの農園で研修を受けているという坂井さんも、移住するまではそうしたステレオタイプを持つ一人だったそう。しかし、凝り固まった考えは本場の味を知るにつれて変わっていったという。
「妻とYouTubeのチャンネルをやっているのですが、その企画を考えていた時にタイのスーパーでドリアンを見かけたんです。これを食べる動画を撮ろうと思ってパックを購入しました。案の定、持ち帰るとラップ越しでも分かる強烈な臭いがあり、『これ食べられるの?』って最初は思いました。ただ、勇気を出して一口食べると、脳を突き刺すような強烈な甘さを感じました。これ以降、農園にも行き、ドリアンにはまっていきました」
一瞬で臭い印象を塗り替えたドリアン。一体どんな味がするのだろうか。
「ドリアンの味を一言で言うのは難しいです。味は品種や熟れ具合によって変わりますし、同じものを食べても食べる人によって感じ方は変わります。タイで最も流通している品種は、熟す前は栗や芋みたいな味がしますが、熟すとブドウの様な感じがします。ただ、梨という人もいれば、バナナという人もいます。同じものでも違った味に感じるのは、脳がドリアンの複雑な味を整理できないんだろうなって思います。ここにドリアンの面白さがあります。このおいしさを日本人に知ってもらうためにはやはり本場のタイで作ることがベストです。自分と同じように『くさい』っていう固定観念だけで食わず嫌いになっている日本人を少しでも減らしたいですね」

タイで自分の農園を作り、日本にオーガニックのドリアンを届けることを目指す坂井さん。難しいとされるオーガニックにこだわるのは「なくてもいいものはできる限りなくしたい」という思いからだ。そのプロセスの一つひとつに一切の妥協はない。
「あまり知られていないと思いますが、ドリアンって品種改良がものすごく進んでいて、タイだけでも200種以上あると聞いたことがあります。農家によって見解が違うところもありますが、おいしさを追及してできた品種はどうしても自然界では弱いという話があります。一般的にドリアンは植えてから実がなるまでに5~6年。オーガニック栽培すると、その間に病気になったり、虫食いで枯れてしまうリスクが高まります。こうした条件を考えると農薬を使うというのは合理的な判断だと思います。ただ、品種に合った土地を選び、土にこだわって環境を整えれば、オーガニック栽培は可能だと思っています。そのための努力は惜しみません。考えて考えて、自分が心からおすすめできるドリアンで日本の人にそのおいしさを知ってもらいたいです」
農園を開くにあたって納得のいく土地を探すため、農業の勉強の合間に国中を駆け回る日々。サッカー選手だったころとは全く違うキャリアに見えるが、ドリアンの生育に向き合う姿勢の基礎はサッカー時代に培われたという。
高校卒業後にプロになれなかった挫折。大学時代に学んだ考える力

福岡県福岡市で生まれ育った坂井さん。
サッカーをしていた6歳年上の兄の影響で、生まれた直後から近くにボールがあった。いつから始めたのかを問われれば「歩き出したころだった」と答えるほど、サッカーは幼少期から切っても切り離せない存在だった。
小学2年生で地元の少年団チームに入り、その後アビスパ福岡のユースチームに入った。しかし、U-18に昇格することができず、高校でサッカーを続けることに。そこからもプロへの道は順調ではなかった。
「本当は高校卒業後にプロになりたいと思い、必死で練習していました。ただ、結局どこのチームからも声がかからなくて、正直、燃え尽きた感はありました。そうしていたときに鹿児島にある鹿屋体育大学からお声がけいただき練習に参加することになりました。そしてそのまま入学を決めました」
温暖な鹿児島は日本代表や開幕を控えたプロクラブの練習地に選ばれることが多く、練習試合が組まれることがしばしばあった。格上のプロと試合のできる環境とそれに向けた部としての準備の一つひとつが坂井選手の成長に大きく貢献していった。
「高校のときは “個”で相手と戦っていましたが、大学で明らかな格上と戦うときにそれでは無理で、チームで戦うことを学んでいきました。先輩たちにならって守り方を考え、それぞれの特徴を生かすことで1+1が2以上になるサッカーの面白さを知りました。工夫をしていくと格上のプロとも何とか戦えるんです。今でも印象に残っている試合はいくつかありますね。特に天皇杯での下剋上は印象的で、当時J2だった徳島ヴォルティスさんに勝ったときや、フォワードが前田遼一選手と韓国代表だったイ・グノ選手というすさまじいメンツのジュビロ磐田さんと延長までもつれ込む戦いができたのはうれしかったです。結局負けてしまいましたが、誇らしかったです」
大学時代に大きく成長した坂井さん。4年生のときに同じ九州・佐賀県にホームを置くサガン鳥栖から特別強化指定選手に指定され、2012年に念願のプロデビューを果たしたのだった。
サプライズの代表選出。トップレベルの選手たちが持つ更なる向上心

大学時代に培った「考えて」サッカーをする習慣は、自分自身の弱点補強にも向けられ、プロ生活でも坂井選手を支えていた。 足りない部分や伸ばしたいところにその都度焦点を当ててトレーニングを考え、自ら実行する。特に卒業後はいくつもあったという課題の中でもパワー不足に着目。「もっと身体を大きくしたかったので、パワーアップのために筋力アップやスプリント、走り方のトレーニングをやりました」と振り返る。
そしてプロ2シーズン目となる2014年、日本代表に選出されるという本人も驚きのサプライズが起きた。選ばれたときの衝撃は今でも鮮明なようだ。
「鳥栖での練習を終え、食事後に仮眠をとって予約した歯医者に行こうとしていたとき、強化部長からの着信に気付いたんです。電話を折り返すと『代表に選ばれた』と言われました。何のことかよくわからなくて、最初は私が慕っていたゴールキーパーの林彰洋選手が選ばれたことを知らせてくれたのかなと思ったんです。ただ、送られてきたメンバー表の画像を見てびっくりしました。当時代表常連だった酒井宏樹選手、酒井高徳選手に並んでもう一人『サカイ』があったんです。整理がつかないまま歯医者に向かいましたね(笑)」
当時の代表と言えば本田圭佑選手や岡崎慎司選手などそうそうたる顔ぶれが並んでいたころだ。なりたかった憧れの日本代表では驚きと学びがあったという。
「まず本当にみんなうまいなと思いました。当時の鳥栖はロングボールを使って前線の豊田陽平選手を中心に走って攻める戦術で戦っていました。ショートパスはあまり使わなかったので、ホームスタジアムはボールが遅くなるような長い芝生のピッチでした。一方、代表は速いパスを多用するので、芝生も短くそろえられていました。その上、水が撒かれているのでみんなのグラウンダーパスが地面にピタってくっつきながらスーって走るんです。だけど、私が蹴ると同じようにできず『デュルンデュルン』で。(笑)だけど、そんな処理の難しそうなボールを柿谷曜一朗選手がアウトで足元にピタって止めたのを見て『上手(うま)っ』って感動しました。そして、何より驚いたのは、それだけ高いレベルでも、周りの選手たちはさらに向上心を持っていたことです。私は今のコンディションを落とさないようにするにはどうするかと保守的に考えていましたが、代表の選手たちはどうすればよりコンディションを良くしてプレーを改善できるのかを試行錯誤していました。その姿に学ぶことは多かったですし、自分自身も選出前以上に『考えて』工夫するようになりました」

その後もプロ生活を通じ、松本山雅やV・ファーレン長崎、大分トリニータ、モンテディオ山形に所属。山形を退団後、当時タイのクラブで監督を務めていた石井正忠さん(現タイ代表監督)の誘いもあって、日本を離れることを決めた。
タイでの引退決意。探求心の向かう先はサッカーから農業に

2022年、タイで2シーズンを終えた坂井選手は31歳になっていた。
所属していたクラブとの契約が満了を迎えたが、オファーがなくそのまま無所属に。「タイにいると、タイの移籍ウィンドウが閉まっても別の国のリーグのウィンドウが開くという感じになっていて『もしかしたら別のリーグからオファーがあるかも』と思ってなかなか引退の決断はできませんでした」
チャンスさえあればまたサッカーをしたい。人生の大半を費やしてきたサッカーへの思いは簡単に消えることはなかった。そして、気付けばフリーのまま8カ月の月日が流れていた。 「さすがにそろそろ次のキャリアを探そう」。そう思ったときに思い浮かんだのは、タイでとりこになったドリアンとモンテディオ山形に所属していたときに見た、農作物が人を笑顔にする光景だった。
「山形はフルーツ王国と言われるだけあって、本当にフルーツがおいしかったです。クラブハウスには地元の方々が届けてくださった新鮮な果物が置いてあったのですが、めっちゃ美味しかったですね。食べた人を自然と笑顔にしてしまう。農業って人をハッピーにするんだなって気づかされて、いつかは自分自身で農園を持ちたいと思っていました。そして、農園をやるなら大好きなドリアンだなと」
山形で農家に近かったからこそ経営の難しさを聞く機会もあり、迷いはあったが、坂井さんは新たな一歩を踏み出すため、2023年11月から1カ月間住み込みでオーガニックの農業体験をした。
「種を撒いて、芽が出て、収穫物ができるという流れを自分の目で見たとき、すごい達成感がありました。そのサイクルの中で病気になったり、虫食いにあったりして、育てている植物がダメになってしまったときは悲しいですが、元気を取り戻してくれたときや順調に成長してくれたときはうれしかったですね。サッカーと同じで一生懸命考えるからこそ、作物を育てているときに喜怒哀楽が生まれます。そしてその先にやっと収穫物を消費者のもとに届けられるんです。私が研修を受けている農園はバンコクにショップとレストランを開いているのですが、自分が育てた作物を食べた人が『おいしい』と言いながら喜んでくれる姿を見ると、これまでの苦労が報われた気がしてうれしかったです。かつての山形時代の自分を見たときに、同じような思いを生産者さんは感じてくださっていたのかもしれないですね」
最初はオファーさえあればいつでもサッカーに戻ろうと思っていた。しかし、体験や研修を通じて農業の奥深さや面白さに目覚め「これを止めてでも戻りたいと思えるほどのオファーはもう来ないだろう」と現役引退へと気持ちが傾いていった。
今後何らかの形でサッカー界に貢献できたらという情熱は消えていないという坂井さん。ただ、農業への思いはそれと同じくらい本物になっているという。
「鳥栖、松本、長崎、大分、山形。日本で所属したどのクラブもサポーターの応援が本当に大きくて、うれしかったです。みなさんに応援されたときは無尽蔵にどれだけでも走れるような気がしました。今は全く違うピッチに立っていますが、現役のころと同じようにタイの皆さんの温かい応援を受けて夢に向かって走り続けています。いつか僕が作ったドリアンをお世話になったクラブの試合で振る舞えたらいいなと思いながらがんばります」
坂井さんがそうであったように、多くのスポーツ選手は上手くなるため、強くなるために「考える」というプロセスを大切にしているはずだ。取材の中でも「突き詰めるという点で、スポーツ選手に農業は向いている」という言葉が印象的だった。農園を開いた暁には、セカンドキャリアに迷いを抱いている現役選手に農業体験をする場を設けたいとも話していた。後継者問題が深刻化している日本の農業。何かをとことん追求するスポーツ選手が次のキャリアの一つとして農業を選択肢にすることは心強い。
text by Taro Nashida(Parasapo Lab)
写真提供:坂井達弥、松本山雅FC