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「私はホケイチの女」いや違う、水泳のレジェンド成田真由美が最終レースで見せた意地

「私はホケイチの女」いや違う、水泳のレジェンド成田真由美が最終レースで見せた意地
2021.09.01.WED 公開

偉大な挑戦の終わりに、レジェンドが意地を見せた。

水泳成田真由美は8月30日、東京2020パラリンピックの水泳・女子50m背泳ぎ(運動機能障がい/S5)決勝を47秒86で泳ぎ、6位入賞を果たした。レース後、「本当に今は泳ぎ切って、幸せな気持ちです」と万感の思いを口にした51歳のレジェンドは、今大会を最後にパラリンピックへの挑戦を終える意向を表明している。1996年アトランタ大会以降、金メダル15個を含む通算20個のメダルを獲得した正真正銘のトップアスリート。6度目のパラリンピックを泳いだ成田の胸中にあるものは――。

開き直る自分が許せない

本人は年齢を気にしていないと言うものの、そのキャリアには紆余曲折ある。2008年に一度は第一線を退いた身。2013年に東京パラリンピックの開催が決まってから現役に復帰し、前回の2016年リオ大会にも出場したが、メダル争いには食い込めなかった。今大会では、ここまで3種目に出場して結果はいずれも予選9位。8人が出場できる決勝に、あと一歩届かずにいた。

この日の50m背泳ぎが、エントリーしている最後の種目だ。成田は「いつも補欠の1番。開き直って『ホケイチの女です』とか言っていた」と冗談めいて言うが、本音は違う。最後となるレースを前にして、若い頃と変わらぬ闘志をたぎらせながらこう明かした。

「そう言っている自分が許せなくて、50mの背泳ぎで決勝に残りたいって思っていた」

女子50m背泳ぎの予選レースを泳ぎ終えた成田真由美

この日、午前に行われた予選では、第1組で4位。別の組で泳いだイタリア人選手と49秒72で並んで全体8位タイとなり、一度はスイムオフによる決勝進出者決定戦が行われると発表された。しかし、日本がすぐにエントリーを表明したのに対し、イタリア側は参加の意思表示をせず、スイムオフは行われずに成田の決勝進出が決まった。

監督も驚き「最後の種目で、ドラマのよう」

決勝に残れたのはいいが、運に救われただけでは終われない。決勝では、レジェンドの生き様を映すかのような渾身の泳ぎを見せた。直線50mの勝負。中盤から2人の中国人選手の先を進み、予選よりも早い47秒86の6位でフィニッシュした。

「(予選の)8位よりタイムも順位も上げたいなと思っていたけど、タッチした瞬間、タイムを予選より上げられていて、『おっ、6位だ』と思って、それはすごく良かったなと思いました」

成田は、若い選手が決勝の舞台で日本記録や自己ベストを更新する姿を見て「私は……」という思いを持っていたという。大ベテランになっても、その競争心に陰りはない。運だけでなく強烈な意地とプライドで引き寄せた最終種目での決勝進出、そして6位入賞。日本代表を率いる上垣匠監督も称賛を惜しまなかった。

「最後の種目で、ドラマのよう。最後の最後に決勝に残って、さらに記録を伸ばしてきた。彼女が持っている大きな力が働いたのではないか。それを引き寄せたのは、日常の取り組み、姿勢、人柄が大きかったんだろうなと思います」

決勝のレースでスタートを切る成田真由美(写真手前)

海外のレジェンドもリスペクト

50m背泳ぎに決勝の舞台には、もう一人のレジェンド、45歳のテレサ・ペラレス(スペイン)もいた。パラリンピックに6大会連続で出場。パラリンピック通算7個の金メダルを獲得しているペラレスは、成田と泳いだこのレースで銀メダルを獲得し、通算獲得メダル数を27とした。この記録はオリンピック最多のメダルを獲得しているマイケル・フェルプス(アメリカ)の28個にも迫る。

ペラレス本人に、成田への思いを聞いた。

「私がいつまで競技を続けるかは決めていないけど、成田選手がとても長い年数、競技を続けていることは、本当に素晴らしいこと。彼女の年齢でレベルを維持し、決勝に出場するのは、並大抵ではありません。私にとっても刺激になるし、本当に尊敬します」

「みんな、みんなが応援してくれて……」

スポーツ万能少女だった成田が障がいを負ったのは、中学生のとき。横断性脊髄炎で下半身まひとなり、車いす生活となった。その後も心臓病を患うなど大病に苦しんだが、車いすでもできるスポーツに取り組む中、転機が訪れた。23歳のときに友人から水泳のリレーメンバーの欠員を補うために誘われ、それまでは嫌いだった水泳にも挑戦するようになったのだ。もともと運動の得意な成田は、短期間で好記録を連発。そこから「水の女王」への道のりが始まった。

とはいえ、順風満帆な競技人生ではなかった。その後、交通事故に遭い、後遺症で左手にまひが残り、体温調節機能も失った。何度も病気やケガに見舞われた成田だったが、水泳への挑戦だけはやめなかった。国際大会にも飛び回り、ついに1996年、アトランタ大会で世界一のスイマーになった。

開会式で聖火ランナーを務めた成田(写真左下)。パラ水泳第一人者の成田を目標とする選手も多い

成田が「水の女王」たる所以は、15の金メダルを持つ華やかなキャリアだけではない。ライバルだったカイ・エスペンハインさんが34歳という若さで病気で亡くなった後の2004年アテネ大会、成田は金メダルを獲得し、そのメダルをカイさんの実家に捧げた。また、ときには自らメディアの前に出て、バリアフリーの重要性を訴えることもある。こうした競技以外での成田の行動は、多くの人々にパラ水泳という競技、そして共生社会への理解を促すきっかけにもなっている。競技の内外で、多くのパラアスリートの先導役を担ってきたといえるだろう。

しかし、一人では続けてこられなかった。自分の競技人生を振り返る成田は目に涙を浮かべ、声を詰まらせながらこう言った。

「ここまで6大会、27年間泳ぎ続けてこられたというのは、本当に環境に恵まれていたと思いますね。大嫌いな水泳が大好きに変わって、私を受け入れてくれた横浜サクラ(スイミングスクール)があって……。サクラの福元(寿夫)コーチがいて、今の堀越(正之)コーチがいてくれて、みんな、みんなが応援して支えてくれて、本当に環境が良かったなって思います」

成田の力泳は多くの人に支えられていた

レジェンドが残した大きな足跡

どんな困難にも負けず、明るく強く泳いできた偉大なスイマーの挑戦は、この東京パラリンピックで一区切りとなる。

「泳ぐ瞬間も、この5年間を走馬灯のように思い出したりもしたんですけど、東京パラ(の開催)が決まって(現役に)復帰して、リオまで行けて、自国開催のこの東京まで出場することができて。なんかもう自分が考えていた以上の競泳人生を送ることができたので、すごく幸せでした」

決勝レース後のインタビュー、あえて「引退」とは言わなかった

「やり切った」とは、こういうことを言うのだろう。最後の最後まで、諦めない気持ちと惜しみない努力で道を切り拓く姿を見せてくれた成田は、吹っ切れたように笑っていた。

text by TEAM A
photo by Kyodo

「私はホケイチの女」いや違う、水泳のレジェンド成田真由美が最終レースで見せた意地

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