元Jリーガーが僧侶に!? 異色のキャリアを通じて伝えたいこと

サッカー王国・静岡。その中部に位置する島田市の曹洞宗・林入寺の副住職・五藤晴貴さん(選手時代の姓は梅村)は、かつてジュビロ磐田のユースで10番を背負い、Jリーガーにもなった異色の経歴を持っている。華々しいキャリアに聞こえるが、プロになるまで、プロになってからも決して順風満帆ではなく、23歳の若さで現役生活を終えた。多くの挫折を経験した元Jリーガーの僧侶。その経験から子どもたちに伝えたいこととは。
オーバートレーニング症候群、ケガ。苦難ばかりだった現役生活の先に禅の道

一見繋がりのなさそうなサッカー界と僧侶の世界。しかし、五藤さんの人生でその二つは地続きでつながっていた。一体どのようにして僧侶になることになったのだろうか。
静岡市で生まれた五藤さんは幼稚園の年少からサッカーを始めた。小学生になってからは地元の少年団に所属し、中学からジュニアユースに進むことを決心。ジュビロ磐田と清水エスパルスの両方に合格した。
「両親も、周囲ももちろん近くにあるエスパルスに行くのだろうという空気でした。ただ、友達もエスパルスに行くということだったので、環境を変えたいとジュビロを選びました」
しかし、静岡市内の中学校に通いながらのジュビロユース生活は大変で、毎日往復で4時間かかっていた。
ポジションはトップ下かボランチで、背番号は10。スタメンに選ばれ続け、中学3年の冬、ユースへの昇格を決めた。
ユース生活も順調な滑り出しだった。現在もJリーグで活躍している選手がひしめく環境ながらも、1年生のうちからスタメンに起用されることがあった。
「『絶対高卒でプロになる』という思いだけは誰にも負けていなかったと思いますし、本当に練習に明け暮れました」
その甲斐あって、高校1年生が終るころには2種登録選手に選ばれ、トップチームに帯同するまでに。「このままプロになれるのかな」。そう思った矢先、突然帯同に呼ばれなくなった。「自分の実力が足りないんだ。もっとトレーニングしないと」。はじめてプロ選手から遠ざかったその感覚と焦りが五藤さんを蝕んだ。
「ある日、身体が重くなり、ピッチに立つと足が震えるようになりました。あまりの様子に異変を感じた監督がドクターに診察してもらうように言ってきました。診断結果は、オーバートレーニング症候群でした」
その後療養を余儀なくされたが、1ヵ月間実家に戻る中で徐々に症状は落ち着いていった。「何がきっかけということはなかったですが、再び磐田に戻った時に症状は出ませんでした」。五藤さんはプロへの思いを新たにした。しかし、トップチームへの昇格は叶わず、別のチームでのプロ入りに望みをかけた。
ベガルタ仙台、ザスパ群馬、カターレ富山の3チームの練習に参加。1月にカターレ富山から声がかかり、入団が決まった。「キャンプでアピールできたのでスタメンになれると思いましたが、叶いませんでした。そうこうしていると夏に肩を脱臼して手術が必要になってしまいました」
その後も2年目に前十字靭帯断裂。3年目に半月板損傷と、ユース時代には一度もなかった大けがを立て続けに経験した。
「最初から3年で結果が出なければ辞めようと思っていましたが、その3年はほとんどケガだったので、もう少しがんばろうとJFLのチームに入りました。それでもある日、欠かさず続けていた『ケガを補強するためのトレーニング』をサボってしまったんです。この時、自分からサッカー熱がなくなったんだと気付き、引退を決めました」
自身のキャリアを振り返り現役で一番つらかったと語るのは、脚が動くのにボールが蹴れなかった脱臼だったという。そのリハビリの最中、静岡に帰省していた五藤さん。この時のある女性との再会が人生を変えていく。
「サッカー時代と真逆」。厳しい修行を乗り越えられたのはサッカーと妻のおかげ

「その時、磐田駅でばったり出会ったのが現在の妻です。元々高校の時の先輩でしたが、この出会いがきっかけで交際することになりました。そして、妻の実家は今私のいる林入寺です。現役時代、妻の実家を訪れた時、義父から『引退したらお寺を継いでほしい』と言われていました。引退した後、義父の言葉にしたがって一般人も参加できる曹洞宗のお寺の修行体験に参加することにしたんです。しかし、それが本当につらくて」
3泊4日で修行したのは福井県にある大本山・永平寺。日本海側の山間に位置する永平寺の冬場の環境は、太平洋側の平地でサッカーをしてきた五藤さんにはこれ以上なく堪えた。
「自分が今までいた世界と全く違いました。山奥で薄暗く、ご飯を食べるときも話すことは許されず、笑えず、寒くても裸足でした。こんな世界では住めないと心が折れかかりましたが、帰って妻の顔を見た時、現役時代を支えてくれた彼女を今度は私が支える番だと思ったんです」

後を継ぐことを決心した五藤さん。横浜市鶴見区の総持寺でさらに2年間にわたる本格的な修行をすることになった。
「ここでの修行も本当につらかったです。はじめの1週間はひたすら16時間壁を向いて座禅を組むんです。薄暗い空間で今が何時かも分かりません。朝、昼、晩、3食が配膳されることでなんとなく時間が分かる感じです。休みなく坐禅を続けるので、身体を動かせる掃除の時間が唯一のリフレッシュでしたね。毎日こんな生活でしたから朝起きると布団だけになって逃げている人もいました。でも、かつてやったフィジカルトレーニングの方がきつかったな、と思って乗り越えることができました」
林入寺の境内でサッカーと仏教が交わるイベントを企画

2年前から林入寺の副住職となった五藤さん。これまでのキャリアを活かし、お寺でサッカーを絡めたイベントなどを企画している。その1つが5月末に行われる「風鈴祭り」だ。
県内にある4つのサッカークラブのカラーに彩色された200個の風鈴を境内に飾り付ける圧巻の催し。普段の試合ではライバル同士のクラブだが、この日、風鈴は仲良く同じ音色を奏でながら訪れる人々を見守っていた。

「今自分がいる世界とサッカー界どちらにも貢献したいという思いが私にはあります。そのためにも、『林入寺に多くの人が来てほしい』し『大好きなサッカーに何かしらの形で恩返しがしたい』、その二つの思いが形になったのがこのイベントです。1日限定で吊るしている200個の風鈴は住職と一緒に2か月くらいかけて塗りました。初開催の年は、ジュビロと島田市がホームタウンの藤枝MYFCの色だけを吊るしていましたが、エスパルスとアスルクラロ沼津のサポーターから『なんでうちはないの?』と言われたので全部のチームの色を飾ることにしました(笑)。風鈴祭りの時には4チームの必勝祈願の祈祷も行って、静岡サッカーを応援しています」
人を引き付ける異色のキャリアを通して、今子どもたちに伝えたいこと

「現役の時よりも取材は今の方が多いです」
元Jリーガーの僧侶。近所のお寺に行けば、元プロの選手がボールを一緒に蹴ってくれる。その話を聞きつけ、ボールを持ってお寺に来る小学生も多くいるという。
「境内で練習してあげることはよくあります。そうした子どもたちに、私がしてきた練習や歩んできたキャリアを伝えることで、ぜひ糧にしてほしいと思っています。成功したサッカー選手の話はテレビやネットでいくらでも見られると思いますが、成功できなかった選手の話はなかなか聞けないですよね。苦しい経験をした先に今があるからこそ、伝えてあげられることがたくさんあると思っています」
異色の経歴だからこそ、興味を持ってもらいやすい。そしてそれは、仏教の世界の入り口にもなっているという。
「僧侶の世界とは無縁な世界で育ちましたので、仏教になじみがない私にとって、説法は難しいのではないかな?と思うときがよくあります。それにサッカーの世界なら30代はベテランですが、仏教の世界ではペーペーもいいところです。年齢を重ねた僧侶が発せられるお言葉なら難しくても聞こうとなるかもしれませんが、私くらいの人間がいくらありがたいお話をしてもまだまだ深みは生まれません。ですから、私はお檀家さんらにお話をするとき、自分の経験談を交えながら私にしかできないお話をするようにしています。そうすることで興味を持って耳を傾けていただけます。これからも自分のこれまでの経歴を活かし、禅の世界、サッカー界どちらにも貢献していきたいです」
僧侶という立場は説法など、人に何かを伝える機会が多い。俗世とは離れた場所で自らのキャリアも俯瞰する人が、プロの世界での挫折経験を子どもたちに伝えられることは貴重だと感じた。たとえ直接つながりのないキャリアであっても、スポーツでの経験は活きていくのだと五藤さんの姿に改めて教えられた。
text by Taro Nashida(Parasapo Lab)
写真提供:五藤晴貴