チア・リク・ハウ
バドミントン王国
マレーシアの希望の星

チア・リク・ハウ選手

バドミントン

遊びながら培った
バドミントンの技術

「マレーシア、ボレ!!(行け!)」
会場が揺れ動いていると錯覚するほど、マレーシアのバドミントン会場は、熱狂の歓声に包まれる。熱風が吹き、ときに激しいスコールが降り注ぐこの国の人々は、バドミントンに国技の誇りを持つ。逆にいえば、マレーシアでバドミントンは数少ない世界と伍していけるスポーツであり、バドミントン選手は「我らが英雄」と国民が胸を張る神に近い存在なのだ。ブラジルにとってのサッカーとイメージは近い。

マレーシアのチア・リク・ハウは、パラバドミントンの世界選手権(SU5クラス)で単複合わせ11回優勝したマレーシアの希望の星だ。2020年の東京パラリンピックで初めて正式競技入りするバドミントンでの金メダルが期待されている。

リクがバドミントンを始めたのは9歳のとき。生まれつき右肩がまひしており、腕は肩の高さより上に上がらない。だが、この国の少年がほとんどそうであるように、リクの遊び場は路上にあった。多くの人は、バドミントンは体育館でするものだと思っているが、この国の子どもたちは風に吹かれながら羽根を追う。

だから自由奔放なバドミントンができあがる。町の路上にはいたるところにバドミントンコートがあり、子どもたちは遊びながら相手の裏をかいたり、風に流れる羽根に臨機応変に対応する技術を蓄えていく。

チア・リク・ハウもそんな子どもの一人だった。

「庭でよくバドミントンをしたよ。もちろん、道の上でも遊んだ」
だから、リクのプレーも自由そのものだ。

北京オリンピック代表の大束忠司(現・日体大バドミントン部監督)はこんなことを言っていた。
「すごいテクニシャン。とくにネット前の技術が高い。簡単に不利な形勢を逆転してしまう」
ルーツをたどれば彼の変幻自在のプレーは、路上でバドミントンを楽しんでいた子ども時代に遡れるのだ。

当時を振り返り、リクはこう明かす。

「とにかくバドミントンが大好きだったんだ。だから、障がいがあるからってバドミントンをしないでいようなんて思えなかったし、右肩は弱かったけど、くよくよしてなかった」


プロ選手を目指して
ジュニアナショナル入り

また早くもリク少年の才能を見抜いた人がいる。リクの母親だ。

「母はバドミントンにのめり込む僕を見て何かを感じたらしい。ある日、わずか9歳の僕に言ったんだ。『プロのバドミントン選手になりなさい』って」

この言葉で、リクの心に火が付いたのかどうかはわからない。しかし、彼には強くなるために十分な環境があった。

バドミントンを始めた後、多くの名選手を輩出したブキット・ジャリ体育学校に所属。北京、ロンドン、リオデジャネイロとオリンピック3大会で銀メダルを獲得した5歳年上の伝説的選手リー・チョンウェイと打ち合うこともあった。

さらに健常の世界選手権を制した元中国代表の韓健(ハン・ジャン)の師事を仰ぎ、リクはバドミントンプレーヤーとしての地力を増していく。韓健が主宰するクラブチームには、常時200人以上のバドミントン選手を夢見る子どもたちがひしめいており、厳しい切磋琢磨があった。

そしてジュニアナショナル入りを果たしたのは15歳のときだ。リクは「障がいがあるのに」という言葉を好まないだろうが、ともかくマレーシアの子どもたちが憧れてやまないトップ選手への道を歩み始めたのだ。

ジュニアナショナル入りしてから、リクはますます力をつけていく。世界バドミントン連盟のシャーミー・サバロン氏によれば、「彼は障がいのため、ボディバランスが悪かった。そのためシャトルがラインを割るなど、ミスがどうしても多かった。でもコーチ陣によって、その弱点を徹底的に直されたんだ」という。

そんな甲斐あってリクは、徐々にジュニア大会などで優勝を重ねていく。とくにダブルスでの好成績が目立ち、「ジュニアナショナルのなかでは、ダブルスで4、5番手だった」と本人は話す。当時の夢はもちろんオリンピックのメダリストだ。

しかし同時に別の世界も知るようになった。ジュニアナショナル入りして間もない2003年、「パラの大会にも出てみないか」という誘いを受けた。マレーシアバドミントン協会(BAM)は、パラの選手を育てたいという意向があったのだ。たしかにリクほどうってつけの選手はいない。

実際、BAMの狙い通り、リクはパラの世界で目覚ましい成績を残していく。2005年の世界選手権で単複優勝したのを皮切りに、他を寄せ付けない強さを発揮。それはこれまで、2年に一度の世界選手権で単複11タイトルを持っていることが証明している。世界トップを目指す子どもたちとの切磋琢磨で培われたバドミントンの技術は、たやすく相手にラリーに持ち込ませないのだ。

ただ年を重ねるにつれ、リクは苦しさも感じるようになっていた。健常の大会にもパラの大会にも出場する日々は多忙を極めた。とくに学問を重視するリク家にあって、きちんと学問を修めたい気持ちも強かった。姉は医学の道に進み、リクもアジア有数の名門校、マレーシア・プトラ大学で経営学を専攻していた。

「すべてをこなすことはできないと思いました。だからパラバドミントンの道を選んだんです。実際、自分が(健常の)世界のトップクラスでやることは難しいことも見えてきていました」

自分の夢は自分だけの夢ではない
だから戦う

この頃には、一緒に厳しいトレーニングを積んだ仲間も徐々に戦線を外れていた。しかし、幸運なことにリクにはパラバドミントンという挑戦の舞台が残っていた。

「幸せなことだと思います。目標を持ってバドミントンを続けられるんですから」

だが、リクほどのきらびやかなキャリアを持った選手は、パラバドミントンの舞台を物足りなく感じることはないのだろうか。この疑問をリクは即座に否定する。 

「そんなふうに感じません。勝つのは簡単ではなく、トレーニングはもちろん、体調管理だったり、いろいろな要素が必要ですから。それに自分が負けたことがある選手もいるんです」

リクがこう話すライバルは、マレーシア同様、バドミントンを国技とするインドネシアのスルヨ・ヌグロホだ。1995年生まれでリクとは7歳違い。2005年のスラバヤ国際U12で上位に進出し、オリンピックの金メダリストになりたいという夢を膨らませていた。しかし12歳のとき、練習に向かう途中の交通事故で左ひじから先を失った。事故後、3年間は家に閉じこもりがちだったが、2010年にパラバドミントンを始めたという経歴を持つ。

リクはこのスルヨに勝ち越しているが、強力なライバルであることは間違いない。もちろん2人が見据えているのは、2020年の東京パラリンピックでの初代王者だ。

「いまは(スポーツ用品メーカーの)ウイルソンに勤務しながら、週に4日、3時間の練習時間を確保しています。以前の仲間たちが練習相手になってくれているんです。彼らはパラアスリートに対して敬意を払い、サポートしてくれるありがたい存在です」

かつてともに世界のトップを目指した仲間たちの夢はすでに破れた。しかし、彼らにはまだ戦い続けているリクという存在がいる。おそらく彼らはパラの世界で戦い続けているリクにかつての自分の夢を託し、応援しているのだろう。

――もはや自分の夢は自分だけのものではない。

「もちろん家族の支えも感じています。コーチへの感謝も計り知れません」
ここにリクが戦う理由がある。リクは多くの人の思いを背負って戦い続ける。


(2018.7)

text by Yoshimi Suzuki
photo by X-1


チア・リク・ハウ

1988年3月8日マレーシア生まれ。先天性の右肩まひ 。15歳から19歳まで健常のジュニアナショナルチームに所属。2003年からパラバドミントンの大会にも出場し始めた。大学在学中からパラバドミントンに専念。世界選手権ではシングルスで6回優勝。アジア競技大会でも、前身のフェス大会と合わせると3大会連続で優勝している。趣味は海釣り。障がい別クラスはSU5。

 
チア・リク・ハウ 選手

チア・リク・ハウ 選手Cheah Liek Hou