子どもの運動嫌いは学校体育が原因? 子どもの「好き」を奪う呪いの言葉とは

子どもの運動嫌いは学校体育が原因? 子どもの「好き」を奪う呪いの言葉とは
2023.05.26.FRI 公開

「運動嫌いを増やしてしまう学校の体育の常識」といった、刺激的なタイトルの記事に目を惹かれた筆者は、その真意を知るべく発言の主である松尾英明氏に連絡を取った。松尾氏は千葉県の公立小学校の現役教員であり、『不親切教師のススメ』という、これまた刺激的なタイトルの本を執筆した著者でもある。松尾氏が言う、子どもを運動嫌いにする学校体育の常識とは?

「比較」が子どもを運動嫌いにする

ここに興味深い数字がある。スポーツ庁が行った「令和4年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果」によると、運動やスポーツが「やや嫌い」「嫌い」と答えた小学生が14%なのに対し、中学生では22.8%と、5人に1人以上の子どもが体を動かすことにネガティブな感情を持つようになってしまっているというのだ。小さい頃は、大人が「走らない!」「じっとしてなさい!」と注意しても楽しそうに体を動かしていたのに、なぜ、年齢を重ねるごとに運動が嫌いになってしまうのだろうか? その原因のひとつが小学校の体育授業にあると松尾氏。

「運動を嫌いになる原因のひとつは、“比較”です。子どもはもともと運動は嫌いじゃないはずなんです。幼稚園の時に友達同士みんなでわーっとかけっこをしたり、ボール遊びをするのは楽しかったのに、体育の授業で急に徒競走で順位を決めるような状況になって、誰よりもできる、できないと比較されるようになることで楽しくなくなってしまうんです。みんなで一緒にやる共同の楽しさや喜びを感じていたのに、それが削られて優れた運動能力を持った人だけが褒められたり評価されたりするようになれば、大人だって嫌になりますよね」(松尾氏、以下同)

しかし、学校体育では徒競走やマラソン大会の順位、跳び箱が何段飛べた、縄跳びで何回飛べたなどの数字が評価の対象となるのだから、比較されるのは仕方のないことではないだろうか? そうした筆者の問いを松尾氏はあっさり否定した。

誤解だらけの目標設定

千葉県の公立小学校の現役教師である、松尾英明氏。オンラインで取材を受けてくれた

「そもそも、小学校の学習指導要領に“体育でこういう数字を達成しなければいけない”という具体的な数字は記載されていません。たとえば水泳はプールがない学校もありますから、日本全国の学校で実施できるわけではありません。スキーもそうですよね。体育の目標は“生涯にわたって健康を保持増進し、豊かなスポーツライフを実現すること”であって、その教材として水泳や球技など、いろいろな種目が例にあげられているだけです。何メートルを泳げなきゃいけないとか、逆上がりができないといけないということは書かれていないんです。

よく学校ではマラソン大会など長距離を走ってタイムを計るイベントを実施していますが、指導要領には高学年ならば“無理のない速さで5~6分程度の持久走をすること”としか書かれていないんですよ」

他にも指導要領では、短距離走の具体的な数値目標を掲げていないし、逆上がりや縄跳びなど、子どもたちが必死にできるように練習している種目についても「必須」といった表現はしていない。では、なぜ日本中の多くの小学校では、さまざまな種目に目標を作り、それを達成させようとするのだろうか。

「学校の先生たちは基本的に真面目で子どもが好きなんです。だから子どもたちの能力を伸ばしたいと考えて、二重飛びが何回できるようになる、などといった最低到達目標を掲げた学習カードなどを作るわけです。それがいつの間にか“ここまでできないといけない”というふうに誤解されて広まってしまう。最初は善意で作った目標が、3年生では25メートルを泳げないとダメだよねとか、跳び箱を何段飛べなきゃダメなんだよねと、義務、必須の課題になってしまっているケースが多いんです」

教師たちが生徒を思って作った目標が、できる子とできない子を生みだし、結果として運動嫌い、体育嫌いに繋がっているとしたら本末転倒ではないだろうか。松尾氏はこうした教師の指導に対する姿勢について著書『不親切教師のススメ』の中で以下のように記している。

立ち止まり、考えてみてほしい。一体、誰のためにできるようにさせたかったのか。子どものため、というのが一般的な回答になるだろうが、実際には指導者の設定した目標達成のためであったり、指導力を証明するためであったりすることがままある。
(『不親切教師のススメ』さくら社刊 37ページ)

これは松尾氏の過去の経験からくる自戒の念も込めた言葉だが、書籍ではさらに、以下のように続く。

技能の習得については、本人の意思を尊重するのがいい。本人が「何が何でも達成したい」というのであれば、それに寄り添い成功へと導くのが指導者の仕事の本分である。一方で、本人にそれができるようになりたいという強い願いがないのであれば、指導者としてやるべきことをやったら、後は本人に任せればいい話である。
(『不親切教師のススメ』さくら社刊 37ページ)

ここだけを切り取ると誤解を受けそうだが、松尾氏は、スポーツにおいて指導者が熱心に指導することを否定しているわけではない。あくまでも体育の授業の話をしているのだ。

そもそも体育の意義とは

毎年夏になると多くの人が熱狂する高校野球では、多くの高校球児が甲子園を目指し、そのために並々ならぬ努力をしている。その他ラグビーでは花園を目差し、バレーボールでは春高出場を目標に、指導者も時には厳しい指導をするが、それと学校の体育は違う。

「歯を食いしばってでも、吐いてでも走れといった指導は、目標を持ったアスリート集団で通用する話です。なぜなら本人たちがそれを望んでいるから。どんなに辛いことがあっても甲子園に行くんだ、花園に行くぞという夢を持っているので、これは強くなるために必要な練習だと思えるし、耐えることができる。でも学校はアスリート集団ではないので、そういった指導は必要ないし、子ども達だって求めていません。

体育をやる意義は、生涯にわたって楽しいと思えるものに出会うこと。これは体育に限らずなんですが、学校教育って国語も算数も、音楽もさまざまな広いことをやるじゃないですか。なぜかといえば、どれがその子にとっての宝になるか分からないからです。全部ができるようにするためではなく、将来クリエイター的な道に進む子、運動で活躍する子、学者になる子。そういった子どもの未来のために出会いを作ることが小学校の使命なので、何でもとりあえずやらせてみる。やらせてみるけど全部はできなくてもいいよ、ということだと思うんです」

運動を好きでいれば将来の可能性は広がり、いずれ自ら望んでスポーツ強豪校に入り、国体や甲子園、オリンピックなどを目指すかもしれない。たとえそれほど本格的にスポーツをやらなかったとしても、少なくとも一生を通してスポーツを楽しむという基礎を作ることができる。反対に運動が嫌いになってしまうということは、生涯にわたってスポーツと触れ合うチャンスを奪われることにもつながりかねない。

「よかれと思っては」呪いの言葉

子どもたちを運動嫌いにしてしまう原因が「比較」や「競争」、あるいは「できなくてはいけない」といった間違った目標設定にあるのだとしたら、それを正せば問題は解決するのではないかと思うが、事はそう簡単ではないという。

「学校の成績や受験制度自体が順位付けですから、他人に勝つのが至上の価値になっているところは否めません。しかし、一番厄介なのは、そうした勝ち負けを助長している大人の行動が善意によるものだということです。たとえばスポーツなどで成功体験があると、それが正しいと思って子どもたちに押し付けてしまう。あるいは親が子どもには苦労してほしくないと、自分が成し遂げられなかったことを押し付けてしまう。でも大概うまくいかないですよね。だって本人は求めてないし、その成功を味わいたいとも思ってないですから。『よかれと思って』『あなたのためなのよ』は呪いの言葉ですし、子どもに対する洗脳だと僕は思います」

「よかれと思って」という呪いの言葉をかけ続けられることによって、子どもたちにとって運動は「楽しいこと」「好きなこと」ではなく、「すべきこと」「やらなくてはいけないこと」「やらされていること」になってしまう。これでは運動を嫌いになるどころか、子どもの主体性を奪うことにもなりかねない。子どもを運動嫌いにさせないためには、まずは大人が「よかれと思って」という考えを改めることが必要なのだ。

運動を好きになる3つのポイント

では、子どもたちに運動を楽しいと思わせ、好きにさせるにはどうしたらいいのか? 松尾氏は、3つのポイントをあげてくれた。

  1. 1.体を動かす喜びを経験させる
  2. 2.できる喜びを経験させる
  3. 3.仲間と共同する喜びを経験させる

「“体を動かす喜び”は本能的な喜びであって、適度な運動というのは基本的に心地よいものだというのは科学的にも証明されています。2つ目の“できる喜び”は、誰かと比較したりするのではなく、以前の自分よりも伸びた、成長したということに人間は喜びを感じるということ。3つ目の“仲間と共同する喜び”は、社会的な動物である人間ならではのものです。たとえば、クラスに一人だけ跳び箱が飛べない子がいたとします。そのままですと自分だけできないので、跳び箱が嫌いになってしまうんですが、仲間が来て『一緒にやろうよ』と声をかけて、得意な子がコツを教えるとか、褒めるのが上手い子が褒めてやる気を出させる。すると出来なかった子が飛べるようになり跳び箱が好きになったり、教えた子も仲間が飛べるようになって嬉しくなる。僕が熱血教師的に指導することもできますが、僕は自分の学校では、そうやって得意な子が「コーチ」のようになって、苦手な子に教えてあげるということを積極的にやってもらっています」

こうすることによって今度は教えてもらった子が、得意な教科の時にできない子をサポートするなど自主的に助け合うという意識が醸成されていくという。

「人の能力というのは、凸凹があるからいい。自分に凹な部分があるから仲間に助けてもらえるし、自分の凸なところが仲間を助けることができる。凸凹がお互いのためになる、真っ平らだと助け合うことができない、相手のために何かしてあげる喜びが得られないから困る。そんな空気になっていきますし、そういう空気があるクラスは教師である僕が『よかれと思って』ということをしなくても、できない子ができるようになったりします」

これは今、多くの企業や組織が取り組んでいる多様性、D&Iの考え方に通じるものがあるのではないだろうか。


松尾氏は著書『不親切教師のススメ』の中で、文字通り、先回りをしてあらゆることを準備するのをやめる「不親切な教師」になることを推奨している。それもやらなくていいの? と驚くべき内容が並ぶのだが、実はこれこそが子どもたちの主体性を育てる本当の意味での「親切な教師」なのではないだろうか。松尾氏の考えに賛同した学校や教育委員会からは、話を聞きたいので講演してほしい、学校改革に協力してほしいといったオファーが後を絶たないと言う。子どものために、なんとか運動嫌いを解消したいとこの記事を最後まで読んでくれた人こそ、「よかれと思って」の呪いにかかっているのかもしれない。まずはその呪いから、大人が解き放たれなければいけないのではないだろうか。

PROFILE 松尾英明
公立小学校教員。「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大学教育学部附属小学校等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。


<参考図書>
『不親切教師のススメ』

松尾英明著/さくら社
「きめ細かな指導」「個に応じた指導」が重視される学校、そして先生たち。しかし、それは本当に子どもたちのためになっているのか? 先生たちの親切心が子どもや保護者を苦しめる原因となっているのでは……という問題提起とともに、「そもそも教師がやたらと”親切”なのはなぜなのか」の考察、教師があえて”不親切”になることで子どもたちを主体的に伸ばすことができるのだという大胆な提案まで、現役の小学校教師が超具体的な例を通して書き下ろした話題の一冊。


text by Kaori Hamanaka(Parasapo Lab)
photo by Shutterstock

子どもの運動嫌いは学校体育が原因? 子どもの「好き」を奪う呪いの言葉とは

『子どもの運動嫌いは学校体育が原因? 子どもの「好き」を奪う呪いの言葉とは』