国枝&上地を輩出! 日本の車いすテニス、強さの源泉とは?

国枝&上地を輩出! 日本の車いすテニス、強さの源泉とは?
2020.09.14.MON 公開

東京2020パラリンピックのチケット販売で高い人気を誇った車いすテニス。その理由はもちろん、国枝慎吾や上地結衣ら金メダル候補がいるからだ。この競技の面白さを知る人も徐々に増えている。ここでは、日本がなぜ強い選手を生むことに成功したのか、源泉を探る。

世界で層の厚さを誇る日本

車いすテニス界の顔ともいえる国枝慎吾が、押しも押されもせぬ歴代最高のキャリアを築いたのは2007年。車いすテニス史上初となる年間グランドスラム(当時の4大大会制覇)を達成し、その偉大さとともに、日本の車いすテニスのレベルの高さを多くの人に知らしめた。

翌年の北京パラリンピックではシングルスの金メダルを獲得。2009年、車いすテニス選手として日本初のプロ転向を宣言した。その後の活躍は多くの人が知る通り。様々なスポンサーを獲得し、充実した練習環境を整え、「プロフェッショナルとして車いすテニスで生きる」を実践している。

リオ2016パラリンピックの表彰台で笑顔を見せる銅メダルの上地結衣 photo by X-1

また日本では女子の上地結衣もプロとして活動。日本全体を見ても層の厚みは増し、現在、眞田卓、三木拓也、大谷桃子といったテニス経験者が世界ランキング上位に名を連ねる。オランダやフランス、イギリスといった欧州勢は依然強いが、日本は伍している。

硬式テニス経験のある大谷桃子は今年、全米オープンに初出場
photo by Getty Images Sport

2000年シドニーパラリンピックで車いすテニスの監督を務めた大槻洋也氏の感慨は深い。

「国内で競い合うトップ選手が増え、ぼやぼやしていたら東京パラリンピックに出られない状況ですよね。選手の意識も高くなったし、海外では英語を話して練習相手を自分で見つけたりと、たくましさも増した印象です」

なぜこのように日本が世界で存在感を示せるようになったのか。それには、やはり車いすテニスの歴史を探る必要があるだろう。

車いすテニス理論を黎明期に構築

1976年にアメリカ人のブラッド・パークスによって普及が始まった車いすテニスは、1980年に70人の参加者を得て全米オープン(現在の全米オープンとは異なる)が開催できるまでに発展し、日本での普及は1982年頃スタートした。

選手に大きな目標と戦う場を与え続けているジャパンオープン(飯塚国際/福岡県)の第1回大会は1985年に行われた。そして、この2年後の1987年、大会中に大きな出会いがあった。

1985年から開催されているジャパンオープン photo by X-1

一般のプロテニス選手のみならず、多くの車いす選手を生んだ吉田記念テニス研修センター(千葉県/以下、TTC)の吉田宗弘理事長(当時:柏ローンテニスクラブ社長)が、のちにバルセロナパラリンピックとアトランタパラリンピックの日本代表になる大森康克氏と出会い、車いすテニスをとりまく現状について知った。

TTC広報の加藤信昭氏はこう振り返る。

「おそらく関東には車いすで練習できるコートが少ない、強くなる方法にも悩んでいるといった話を聞いたのだと思います。そこで“うちで練習すれば”となり、車いす選手が訪れるようになりました」

1987年は、車いすテニスがパラリンピックの公開競技として行われるようになる前年。日本車いすテニス協会(当時:日本車いすテニス連絡協議会)は、1988年に世界国別選手権(ワールドチームカップ)へのチーム派遣も開始し、1992年のバルセロナパラリンピック、1996年のアトランタパラリンピックにも選手を送り出した。競技者スポーツとしても盛り上がり始めた時期だ。

2006年にフェスピックの男子シングルスで優勝した国枝慎吾のプレー photo by X-1

「しかし……」、と加藤氏は続ける。

「なかなか勝てませんでしたね。海外と格段に差がありました。ただ、その時代でも当センターでは、医科学的なフィットネスを行い、コーチの育成にも力を入れていました。吉田理事長が“きちんとスポーツをやるからには、論理づけたアプローチをしなければならない”という考えを持っていたんです」

そのため、TTCでは、様々な車いすテニス理論が徐々に蓄えられた。チェアワークを磨く練習はもちろん、コート上での敏捷性、パワー、スピード、持久力などを高めるフィットネス方法などだ。これらの理論が積み重なると、1998年にはビギナーから世界で戦う選手まで、幅広い車いす選手を養成する「TTC車いすプレーヤーズプログラム」がスタート。これは「強くなりたい」と強烈に願う選手の心を引きつけた。

その一人が日本で最初に海外ツアーへ本格的に切り込んだ齋田悟司だ。

強化理論を構築し、支援態勢を整えて飛躍

1999年、齋田は勤めていた四日市市役所を辞めて退路を断ち、シドニーパラリンピックでメダルを手にしたいと、TTCへやってきた。しかし本番で齋田はベスト8に留まる。日本全体としても、アトランタに続き、惨敗だった。

だが、当然、車いすテニスを愛する人たちが何もしていなかったわけではない。日本車いすテニス協会は、2000年7月の世界国別選手権に初めてトレーナーを帯同。シドニーパラリンピックにも同行させ、選手が最大限にパフォーマンスを出せるよう努力していた。

大槻氏は「資金面も少しずつ変わりました。それまでスタッフは自費で遠征していましたが、この頃から一部が協会から出るようになって。選手もパーソナルコーチをつけるようになり、2004年アテネパラリンピックまでの4年間で選手が強くなっていったんです」と明かす。

そして、強くなった選手に数えられるのが国枝だ。彼が「TTC車いすプレーヤーズプログラム」に加わったのは2001年。加藤氏によれば、当時、国枝のパーソナルコーチだった丸山弘道氏は、映像分析を積極的に取り入れたという。

「いろんな選手の試合を撮り、ある選手はファーストサービスでどこに打つ確率が高いかなど、選手がふわっと感じていたことを数値化し、戦略化していきました」

こうして少しずつ種が蒔かれていくと、花が咲くときはやってきた。最初の大輪は齋田、国枝、山倉昭男が成し遂げた2003年世界国別選手権の優勝だ。翌年のアテネパラリンピックでは齋田/国枝がダブルスで金メダルを手にした。

アテネパラリンピックの男子ダブルスで金メダルを獲得した齋田(左)と国枝 photo by X-1

大槻氏は「これで世界の日本を見る目が変わりました。それまでなんて、海外選手は日本選手を練習相手にもしてくれなかったんですから」と振り返る。

その後の発展は、冒頭で話した通り。日本の飛躍は、選手を強くするための理論を体系化し、選手がよいパフォーマンスを出すための態勢づくりに成功したことが大きい。選手自身も競技者人口を増やすため、積極的にイベントを行い、ジャパンオープンをはじめ、大会の設立に尽力してきた人の努力もある。

大槻氏は「今後は、もっと車いすテニスをテニスとして見てくれる人が増えれば」と語る。おそらく、これには国枝も激しく同意するだろう。これまで同じ夢を頻繁に口にしてきた。「見る人を熱狂させたいんだ」と。

国枝が見据える先は、多くの人に車いすテニスで興奮してもらうことに他ならない。それは他のトップ選手や関係者も同じだろう。成熟しつつある車いすテニス界の次なる目標、それは「熱狂」にある。

全米オープンで優勝した国枝 photo by Getty Images Sport

text by TEAM A
key visual by Getty Images Sport

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