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パラスポーツを支える「つくりびと」、義肢装具士・臼井二美男の人生を変えた義足

パラスポーツを支える「つくりびと」、義肢装具士・臼井二美男の人生を変えた義足
2021.08.16.MON 公開

パラスポーツの“今”をお届けするスペシャルムック『パラリンピックジャンプ』のVOL.5発刊を記念して、過去に本誌で取り上げたパラスポーツを支える人たちのストーリーをパラサポWEB特別版(全3回)でお届けします。

第1回は、パラアスリートが最高のパフォーマンスを発揮するために欠かせない義足作りを通して、選手を支える義肢装具士・臼井二美男氏の物語。昨年、厚生労働省が卓越した技能をもつその道の第一人者を表彰する「現代の名工」にも選ばれた氏がパラアスリートと歩んできた日々に迫る。

※この記事は『パラリンピックジャンプ』VOL.4(2020年3月発行)に収録されたマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#4義肢装具士編の原作を元に制作しました。


プロローグ

進学で群馬から上京したが、別に何かを勉強したいわけじゃない。
大学に行く意味を見出せず、退学してフリーターに。
特にやりたいことなんかないが、きっといつか見つかるはず。
それでも職を転々として食いつなぐ日々で、気がつけば30歳手前。
今も昔もよくいる若者の一人だったかもしれない。

……でも、人生はいくらだって変えることができるんだ。

義肢装具士としての駆け出し

中年の患者「こんな義足、痛くって履けねぇよ!」

臼井二美男の前で、臼井の作った義足は床に投げつけられた。
30歳を目前に義肢装具士を志したが、その理由はいたってシンプル。結婚するために正社員になるのと、小学校の時の先生が義足を履いていたことを思い出したからだ。

義肢装具士とは、事故や病気で手足を失った人のために義肢と呼ばれる義手や義足を作る職業だ。いわば、人の身体の一部になるものを作る仕事。身体の一部になるものが痛かったら、そりゃ短気なおじさんなら怒って投げつける。

臼井は未経験で東京身体障害者福祉センター(現在の鉄道弘済会義肢装具サポートセンター)に入社し、一生懸命働いて仕事を覚えようとした。人が嫌がることでも率先してこなした。早く一人前になりたかったから。

でもそう簡単に一人前になんてなれない。なぜなら義肢はすべてオーダーメイドだからだ。

例えば、脚を切断した場合、残った脚の長さは人によって違うし、その人の体格も違えば脚の太さも違う。さらに、きついフィット感が好きな人もいれば、余裕があって緩いフィット感が好きな人もいる。

そのため一人ひとりに合った義足を作る必要があるが、それが難しい。職人的な感覚や技術も必要だが、何より患者の心に寄り添うことが重要だった。その人が何を求めているか、じっくりコミュニケーションを取って聞き出した。義足の話だけではなく、関係ない話もいっぱいした。

ちなみに、投げつけられた義足は臼井が再調整して、患者の家に行って謝りながら届けた。

さらにコミュニケーションを取ってその患者にとって理想の義足に近づけていく。
そうやって患者と義肢装具士の信頼関係は生まれていくのだ。

ハワイで受けた衝撃

入社から5年ほど経った頃、臼井は新婚旅行でハワイを訪れた。
義肢装具士として経験を積んできている臼井は、せっかくだからと現地の義肢製作所を見たいと思った。現地の電話帳で義肢製作所を探し、電話をかけてみた。もちろん英語はろくに話せない。

臼井「ハロー、アイアムジャパニーズテクニシャン。ハネムーンでハワイに来てるんだけど、見学させてもらえませんか?」

片言の英語で何とか通じて訪れるとそこは小さな製作所。

技士「君はこれを見たことないだろう?」

手に持って見せてきたのは、義足の足部だった。

臼井「あひるの脚みたいだ」
技士「これはカーボン製で丈夫で長持ちするんだよ。生活用ではあるけど、走ったり、テニスしたり、野球もできるんだよ!」
臼井「え!!これで!?」

臼井は本当に驚いた。
それまでは主に木で足部を作っていたが、動きによっては折れて壊れてしまっていた。木はたわまないので反発がほとんどない。歩くことはできるが、少しでも運動しようとするものならすごく疲れる上に、壊れる危険もはらんでいる。もし義足が壊れてしまえば、会社や学校に行くことができなく、日常生活に支障をきたすことになる。そのため、当時の日本には義足で思い切ってスポーツをしようとする人なんていなかった。そんな常識が頭にあった臼井にとって、初めて『走る義足』を意識した瞬間だった。

木製の足部
ハワイで見たカーボン足部

帰国後、臼井はカーボン製の足部に思いを募らせた。

臼井「(体重をかけてもカーボンなら壊れないし、逆に反発するからエネルギー効率がいい。あの足部があれば走ることができずはずだ……)」

そこで会社にお願いをして研究費で2個購入してもらうことができた。ちなみに当時で足部1個が25万円。翌年さらに会社からパーツを買ってもらい、義足を履く若い女の子に声をかけ、実際に走らせることに。

危険がないように臼井も伴走したが、意外とあっさり走れた。しかし次の瞬間、

女の子「臼井さん、私、走れたよぉぉぉ……!!」

女の子の目から大粒の涙が流れた。
次は男の子を走らせた。やはり走ることができた。そしてまたうれし涙を流した。脚を失って二度と走れないと思っていた人が、走る喜びを取り戻した瞬間だった。

臼井「(義足で走ることは、ただ走るということ以上の意味があるのかもしれない)」

そして、臼井は義足で走るランニングクラブを作るのである。

ある若者との出会い

臼井がランニングクラブを作り、活動をしてから数年が経った頃、18歳の若者が鉄道弘済会を訪れた。

鈴木徹だ。ハンドボールの強豪校でプレーし、山梨県代表として国体に出場して3位に入る活躍を見せた。その後、筑波大学への進学が推薦で決まり入学まであと1か月というタイミングで自動車事故に遭い、右脚を切断。脚を失ったショックは当然あったが、それ以上に鈴木の心には強い思いが渦巻いていた。

鈴木「(脚は失ったけど、スポーツがしたい)」

事故後、地元の山梨県で入院していた鈴木は病院で医師にスポーツを続けたい旨を相談する。すると医師は小さな冊子を鈴木に渡した。

医師「東京の臼井さんという人がスポーツ義足をやっているみたいだよ」

鈴木が受け取った冊子は臼井が作ったスポーツ義足を紹介するものだった。

後日、その情報をもとに鉄道弘済会にたどり着いた鈴木だったが、臼井の顔は知らなかった。

鈴木「(臼井さんってどの人だろう?)」

臼井を探す鈴木だったが、若い技士と義足作りについて相談をしている後ろに髪の毛がボサボサの技士が立ってそのやりとりを見ていた。

鈴木「(誰だろう?なんか変なおじさんがいるなぁ……)」

その日はそれで鉄道弘済会でのやりとりは終わり、後日訪れたときは若い技士ではなく、その髪の毛ボサボサの技士が鈴木に対応した。

臼井「僕が君を担当するからよろしくね」

こうして始まった2人の義足作りだが、臼井はあえて冷静に一歩引いた態度で臨んだ。
脚の傷が治っていない鈴木の場合はせいぜい午前と午後で20分ずつ程度しかリハビリができなかった。

鈴木「(くそっ……、なんでこれしかできないんだ……)」

鈴木はとにかく体を動かしたかった。それをやれない現実に悔しくやりきれない思いを常に持っていたため、臼井がそれをなだめてストップさせる必要があったのだ。
臼井の対応もあり、鈴木の傷は回復に向かい、リハビリも進んできた。
そして3か月のリハビリ入院の後、鈴木は初めて運動用の義足を履いた。

鈴木「(あれ?なんだこの硬い感じ……。松葉杖がないとぜんぜん歩くのも大変だ……)」

とても自分の脚とは思えない感覚に鈴木は愕然とした。義足を履けるようになればすぐ運動できるようになれると思っていたが、大きな壁にぶつかった。だが、すぐに前を向く。

鈴木「(オレはもう一度ハンドボールをやるんだ!)」

さらにトレーニングに打ちこみ、臼井もそれを見守り、その思いに応えて義足を調整していった。

新たな挑戦

事故から一年が経ち、大学を休学していた鈴木は4月から復学することが決まった。
この1年でリハビリ、トレーニングをして義足で走れるようになっていて、縁あって中央大学のグランドでタイムを計測することになった。

よーい、スタート! 計測してみると100mを走るのに20秒もかかってしまった。

鈴木「(これじゃとてもハンドボールなんてできない……。頑張ってきたけどこれしか走れないのか……)」

落胆する鈴木の目に走り高跳び用のマットが入ってきた。

鈴木「(そういえば中学校の頃、走り高跳びやったなぁ……)すいません、ちょっと走り高跳びもやってみてもいいですか??」

思い付きで始めたところ、ジャンプする爽快感が楽しかった。
そして小一時間もしないうちに165cmをクリアした。

鈴木「くそ!中三のときは176cmくらいは跳んだのに!!」
臼井「いやいや、鈴木君、日本記録は150cmくらいだよ」
鈴木「へ?そうなんですか??」

あっさりと大幅に当時の日本記録を超えてしまった鈴木に、臼井は確信した。

臼井「(やっぱり鈴木君には陸上が合うなぁ)」
鈴木「臼井さん、ハンドボールは難しいし、オレ、陸上を本気でやってみるよ!」
臼井「うん、いいと思うよ。じゃあ早速、試合に出てみようか!!」

ここにジャンパー鈴木徹が誕生した。

濃密な3か月

鈴木の初陣はすぐにやってきた。

臼井「鈴木君さあ、パラリンピックを目指すにしても次の4年後のアテネだよね」
鈴木「そうですね、さすがに時間なさすぎですよね……」

2000年10月に開催予定のシドニーパラリンピックの代表が決まるのが6月だった。4月デビューで6月に選ばれるなんて非現実的だ。
しかし、初めての大会でシドニーパラリンピックの参加標準記録である173cmをクリアし、その後の大会でも185cmまで記録を伸ばし、同年6月に鈴木はシドニーパラリンピックの陸上競技日本代表選手に選出されてしまうのである。

4年後を目指していたはずだったが、日本代表となった鈴木は浮かれることなくシドニーでのメダル獲得を狙っていた。

鈴木「きっとメダルは190cmくらいは跳ばないと難しいだろうなぁ……。いまの最高が185cm。どうしたものか……」

筑波大学の陸上部に入部して練習し、走り高跳びの技術を磨いていた。
記録をあと一段階伸ばすためにどうすればいいか悩んでいた鈴木は臼井に相談することにした。

鈴木「臼井さん、義足ってもう少し何とかなったりしませんか?」
臼井「そうだね……、鈴木君、ちょっとこれを見てよ」

臼井が鈴木に見せたのは海外の義足情報誌だった。そこに載っていたのは長い板バネ状の義足だった。現在主流となっている形のファーストモデルだ。

臼井「これ、スポーツ専用のものだよ。どんな具合かわからないけど、僕もがんばるからこれでやってみない?」
鈴木「はい、お願いします!」

当時、鈴木が使用していた義足はあくまで生活用の域を出ないもので、足部のパーツを一部外して板バネのようにしていた。大会まであとたった3か月しかない時点で義足を変えることを決断した。
現状維持よりとにかくチャレンジである。
新義足の板バネは長く力を加えると強く反発し、取り付ける位置もソケットの下から後ろに変更になる。

臼井「(反発力が強いのはわかるが、走り高跳びにはどうすれば合うのか……)」

やってみようと言ったものの、その扱いに臼井は悩んだ。
初めて出たモデルだから経験値もなければノウハウもない。
教えてくれる人も誰もいない。

さらに難しくさせたのが走り高跳びという種目だ。
まっすぐ走るのならともかく、走り高跳びの助走は弧を描くように走り、さらに走り幅跳びのように義足で踏み切るのではなく健足で踏み切り、ジャンプする。
『義足の反発をいかして義足側で高く跳べばいいんじゃないの?』と思うかもしれないが、走り高跳びは前に走って背面に跳ぶため、足首をひねりながらジャンプする必要がある。
その細かい足首の動きは義足では再現できないのだ。

つまり、健足で踏み切るためにはその一歩前で支える義足がカギになってくる。
その義足側の一歩が反発しすぎても沈みすぎてもいけない。
考える臼井に鈴木が意見をどんどん出してきた。

鈴木「ここをこうしてみたらどうですかね。いや、長さももう少し変える方がいいかな」

ここで臼井は気づく。

臼井「(誰もやったことがないことをやろうとしているんだ。いくら考えても正解なんてわからない。とにかくトライがあるのみだ!)」

そこから臼井と鈴木の試行錯誤が始まった。
鈴木が住んでいたのは筑波大学の近く。練習後に東京まで車で来て夜な夜な臼井のもとを訪れた。

真っ暗の鉄道弘済会の中で臼井の席だけ明かりがついている状態だ。
そこであーでもないこーでもないと義足についての意見を出し合った。
義足に付けるスパイクがないからねじを削って作ったりもした。
さらに実際の跳躍を確かめるべく臼井も筑波大学のグランドに何度も足を運んだ。
季節は夏。とにかく暑かった。

ソケットが合わないと鈴木から電話が入り、鈴木の故郷である山梨県の実家まで工具を持って出向いたこともある。
もちろん臼井は鈴木の走り高跳び用義足にかかりきりになるわけにはいかない。
鉄道弘済会の技士として自分が担当する患者がたくさんいる。臼井に休む時間などなく、睡眠を削って作業を続けた。

そんなある日、臼井は駅のホームで倒れた。疲れが溜まっていたせいか、貧血だった。もうろうとする意識の中で臼井は思った。

臼井「(自分には義足を待ってくれている患者がたくさんいるし、鉄道弘済会のみんなには迷惑はかけられない。鈴木君は本気でスポーツをしたいと僕のもとに来てくれた。僕がそれに応えないでどうするんだ!)」

臼井は倒れた次の日も通常通り出社した。朝から夕方まで患者の義足作りをして夜に鈴木の義足に取り掛かった。執念で鈴木の義足に寄り添った。ものすごく濃密な3か月。そんなやり取りを続けるうちに、シドニーパラリンピックが近づいてくる。そして、鈴木の義足も精度が上がっていく。

2000年のシドニーパラリンピックで鈴木徹選手が着用した義足

そして迎えたシドニーパラリンピック

華やかな開会式、大きなスタジアム。
鈴木の出番は大会後半の走り高跳びのみだ。

臼井もシドニーに来ていた。会社が渡航費を負担してくれたが、パスがないので選手村やバックヤード、サブグランドには入ることができなかった。
しかし、取材クルーの車に乗せてもらい、車内に隠れてサブグランドに入ったりもした。

大会が始まってから競技が始まるまで時間があったため、鈴木は練習し、臼井も鈴木の義足の調整を行った。競技日が近くなるにつれて若い鈴木もナーバスになり、普段気にならないところまで気になってくる。

鈴木「臼井さん、ソケットがきついから調整してもらえませんか?」
臼井「いいよ、貸してごらん。(まあ筋肉がこわばってナーバスになってるだけでしょ。鈴木君が満足するなら一芝居するか。)」

臼井はソケットを削るふりをして、鈴木が後ろを向いている隙に紙やすりでこすった。

臼井「はい、これで大丈夫だよ」

臼井が調整したと思った鈴木はソケットを受け取って装着する。

鈴木「ありがとうございます!バッチリです!」

それを聞いた臼井は表情こそ変えなかったものの、笑いをこらえていた。

競技場で選手を見守る臼井(写真は国内大会)

客席はまばらだったが、オリンピックを開催した立派な競技場に、ついに鈴木が登場した。
客席で見ていた臼井は素直に思った。

臼井「(ああ、かっこいいなぁ……)」

鈴木の義足を履いたすらっとした立ち姿に目を細めた。そして、鈴木が緊張していることがすぐわかった。それを見て臼井も緊張してきた。

初めての世界の舞台、鈴木の記録は178cmで6位に終わった。
事前の予想通り、メダル争いは190cmを超えてきた。193cmを跳んだ選手が金メダルを獲得した。

大舞台で己の力を出す難しさもあったが、まだまだ義足を使いこなせてないと感じる部分もあったし、義足自体も改良の余地がある気がした。
競技後、鈴木は客席にいる臼井のもとに向かった。

鈴木「ありがとうございました。臼井さん、僕、もっと跳びたいです」
臼井「ああ、もっといい義足を作るよ」

多くの言葉はいらなかった。ただ固い握手を交わした。濃密な時間の中での2人の挑戦が終わった瞬間だった。

挑戦は続く

その後、義足のアスリートが増えたということもあり、2004年アテネパラリンピックから臼井はメカニックとして日本選手団に入り、以来、2016年リオパラリンピックまで4大会連続で選手たちをサポートしている。

鈴木も2000年から2016年リオパラリンピックまで5大会連続出場を果たし、走高跳で6位、5位、4位、4位とメダルまであと一歩の成績を残している。
記録はというと、最高で202cmをクリアするまでになっている。現在41歳となった鈴木だが、東京パラリンピックでは初のメダル獲得を狙い、今なお臼井らとともに新しい義足作りに挑戦している。

やりたいことがなかった若い臼井が巡り合った義肢装具士という仕事。
人生はいくらだって変えることができる。
それは自分だけでなく他の人の人生もだ。

脚を失った鈴木の人生を変え、そしてそんな鈴木の活躍を見た人が希望を見出すこともある。
臼井は今後も希望という名の義肢を作り続けていく。


本記事のもととなったマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#4義肢装具士編は、『パラリンピックジャンプ』VOL.4(2020年3月発行)に収録されている

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text by Asahara Mitsuaki/X-1
photo by X-1

※本記事は『パラリンピックジャンプ』編集部協力のもと掲載しています。

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