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走り幅跳び・芦田創が金メダルで証明したい「障がいに甘えない生き方」

走り幅跳び・芦田創が金メダルで証明したい「障がいに甘えない生き方」
2019.06.19.WED 公開

2018年12月、芦田創(T47/上肢障がい)はオーストラリア・シドニーに練習拠点を移した。走り幅跳びを本格的に始めてから4年目となるこの年の最終世界ランキングは5位。東京2020パラリンピックで金メダルを獲得するため、新天地に変革を求めた胸の内を聞いた。

「このままでは金メダルは獲れない」

2018年10月、ジャカルタで開催されたインドネシア2018アジアパラ競技大会で、芦田は6m88を跳んで3位をマークし、自身初となる走り幅跳びでの国際大会メダルを獲得した。しかし、わき上がってきたのは喜びではなく危機感だった。世界記録まで5cmに迫る7m53で優勝したワン・ハオ(中国)の跳躍は圧倒的だった。

芦田創(以下、芦田) シドニーに行くと決めたのは、ワン・ハオの1本目の動きを見た瞬間です。「強い。このままでは東京で勝てない」と感じました。彼は踏み切りがすごく強いんです。うまく見えないのに、その瞬間、弾ける感じがする。
一方、僕は踏み切りに課題を感じていました。走り幅跳びを始めてから、速く走って得た水平のエネルギーを、強い踏み切りで鉛直のパワーに変え飛距離を出すという発想で、助走の速度を上げることにフォーカスしてトレーニングしてきました。でも、それは再現性が低いんですよ。うまくハマって助走と蹴りが合えばそれなりの距離は出る。でも、今後も助走だけだと、これ以上は跳べないラインに来たと感じました。

アジアパラ競技大会では走り幅跳びで銅メダルだった ©X-1

もちろん最高に“ハマった”ときもある。2017年3月、日本記録となる7m15を出したときだ。この結果で世界は芦田をトップジャンパーの一人として認めるようになった。2016年のリオパラリンピックのメダル争いは、7m前半で繰り広げられている。だが、この数字は新たな悩みの始まりでもあった。

芦田 7mを越えたときは、「メダルを狙えるレベルになれた」とうれしかったですね。6m52で終わったリオ以降、どうやったら金メダルをとれるか、相当もがいてきたので「自分の努力は正しかった」と思いました。でも、これって勘違いだったんですよ(苦笑)。7m15は出した記録ではなく、たまたま出ちゃった記録でした。

2017年シーズン、芦田はケガに苦しんだ。

芦田 その後、7m15を再現しようとしたんですが、できなかったんです。どうして跳べたのか、説明できないから、いくら同じようにやっても何かが違う。そのうちオーバーワークになって、どんどんバランスが崩れてケガが重なり、7月に行われた世界選手権は6m40に終わりました。

この経験で芦田が学んだことは、いい記録を持つことと、勝負に勝つことは違うということだ。芦田は、勝てる選手になるため、いつでも躍動できる“再現性”が欲しいと思った。

芦田 本当の強さって、安定した記録が出せて、狙った試合で記録を出せて、どうしてそのジャンプができるか言語化できるものなんだと思います。でも、僕はそれができなかったから、新しい知見が欲しくて2018年1月に1ヵ月間、オーストラリアに行ったんです。

オーストラリアでは求めるものが待っていた。跳躍選手の育成に定評のあるアレックス・スチュワートコーチがもたらしたのは、「理想の踏み切りをするための助走」という考え方だった。体のバネを活かして跳ぶタイプの芦田にこのアプローチ法はしっくりきた。

芦田 アレックスの指導は、真逆といえるくらいこれまでと発想が異なりました。走速度が大事なのは同じですが、踏み切りで一番強いパワーを得るためにどう流れをつくろうかという考えをもとに、助走から地面を真下に押して、押して、押して……と、押し続ける感じで走るんです。僕は母指球で引っかくようにして地面をとらえにいってましたが、足裏全体で地面をとらえにいくような感じでした。

オーストラリアで得たことは新鮮だったが、新たな問題も生じた。帰国後は試行錯誤を重ねるも、これまでの助走技術と噛み合わない。そして冒頭の通り、「変わらなきゃ」という思いを胸に、2018年末、練習拠点を移すことを決意するのである。その決意は、芦田が「東京で金メダルを獲る」と決めたときから、パーソナルコーチとしてお世話になってきた母校・早稲田大競争部の礒繁雄コーチのもとを離れるという意味でもあった。

新天地オーストラリアでの充実ぶりを語る

いかに障がいに甘えない生き方をするか

芦田 インドネシアから帰国した翌日、礒コーチに会いに行きました。そしたら「絶対、お前なんか言いに来ると思ったわ」と言われました(苦笑)。アジアパラのワン・ハオの跳躍を見たとき、僕が来る予感がしたそうです。だから、僕は新しい気づきを試してみたいという気持ちを伝えたんです。

そんな礒コーチはいまでも大切な恩師である。芦田は早稲田摂陵高3年のときに出たパラ大会の400mで日本新記録を出すなどしていたが、ベストを出さなくても優勝できるパラ陸上の世界にのめりこめなかった。そんな芦田を本気にさせたのが、大学4年のときに出会った礒コーチである。

芦田 陸上はずっと続けていたけど、やる気スイッチが入る前は目標がなくて、つまらなかったです。ある意味、障がいがあるって自分を認めやすいんですよ。僕みたいな軽度の障がいだとなおさら。そこそこの記録でもパラの世界ではすごいね、って言われて、健常者の世界では、他にいい成績を残した人がいても、障がいがあるのに頑張っているね、となる。そんななか僕は障がいがあるからケガをしやすいのは仕方ない、健常の人に比べて記録もこれくらいで仕方ないと、障がいを理由に心に障がいをつくっていました。そういう僕を見て礒コーチは「お前は障がいに甘えている」とか「なめんなよ」と言ってくれたんです。

芦田は右ひじが脱臼した状態で生まれ、右ひじを曲げることができない。さらに脱臼治療の過程で腫瘍ができ、除去する手術を繰り返すうちに右腕に機能障がいも残った。腕の質量は左右を比べると約2㎏違うという。

芦田 出会ったばかりの頃、礒コーチから「できないことがあるのを認めることがファーストステップだ」という言葉をもらいました。この言葉を消化できたことが大きかったですね。

たとえば僕は右腕が軽いことで、どうしても左腕のほうが大きく振れてしまう。すると下肢にも影響が出て、バランスがズレて、ケガやパフォーマンスの低下につながる場合があります。でも、それは右腕の障がいによる副次的問題であって、下肢に障がいはないんですよ。

つまり、できないことがあるのは事実として変えられないけど、事実以上の意味にしてはいけないということです。できないこと以外は可能な範囲で使い切る方法を見つける。僕の場合だったら、右の背筋は左側以上にトレーニングするとか。それがパラアスリートにとってパフォーマンス向上の第一歩だということです。

芦田がいう「障がいに甘えている状態」とは、“副次的な問題”を理由に「これはできない」「ここまでで十分」と限界を決めてしまうことなのだろう。

芦田 僕が東京で金メダルを獲りたいのは、自分と似た境遇の人のなかで一番になることが、礒コーチがいう「障がいに甘えない生き方ができたか」の証明になるからですよ。

それと障がいがあってもなくても、一人ひとりが自分のフィールドに打ち込んだ結果に誇りを持てて、周りも「そういうやつもいるよね」と認められる世界観をつくれたらいいなって。もし僕が走り幅跳びで一番になって、思いを貫いたことを見せられれば、発言力も持てる。自分のためだけだったら、競技はやっていないです。

なんでも突き詰めて考える“頭脳派”が狙うのは金メダルだけだ

こんな夢を抱く芦田のトレーニングは順調だ。本格的にオーストラリアに渡ってからは日々がいっそう充実し、踏み切り足を左から右に変えるなど、大きな改革も進めている。

芦田 寝て起きてトレーニングして、考え事をしたりして……。毎日、楽しいですね。いろいろ変えたので大会で数字は出てくると思う。でも、11月の世界選手権で7m30から40出さないと、東京パラリンピックの金メダル獲得はないと思っています。

世界の勢力図は、前出のワン・ハオとリオ優勝のアメリカ選手が中心で、3番手グループの一人として芦田が2人の後を追う。もし、芦田が追い上げに成功し、東京で勝ったらどんな興味深い話が聞けるだろう。それは多弁さのなかに純粋さが光るアスリートの物語のはずだ。

text by Yoshimi Suzuki
photo by Hiroaki Yoda

走り幅跳び・芦田創が金メダルで証明したい「障がいに甘えない生き方」

『走り幅跳び・芦田創が金メダルで証明したい「障がいに甘えない生き方」』