パラアスリートの「脳」から次々と新発見!脳の驚異的な再編能力と、その可能性とは?

パラアスリートの「脳」から次々と新発見!脳の驚異的な再編能力と、その可能性とは?
2022.03.14.MON 公開

近年、パラリンピックに出場する選手たちの驚異的な身体能力に注目が集まっている。2021年の東京大会で多くの人々が目にしたように、限界に挑むパラリンピアンはまさにアスリートであり、時に健常者を脅かすほどの記録で人々を驚かせる。そんなパラアスリートの脳と身体機能の関係について研究をしているのが東京大学の中澤公孝教授。パラアスリートたちを調べてわかった、驚くべき人間の脳の可能性についてお話を伺った。

パラアスリートの脳内では、何が起きているのか?

東京大学大学院総合文化研究科 生命環境科学系 身体運動科学 中澤公孝教授

運動生理学・運動神経生理学・リハビリテーション医学を専門とする中澤教授は、その研究の一環としてパラリンピアンの脳に着目した。そしてその驚異的な脳の再編能力の価値をわかりやすく多くの人に広めるために、「パラリンピックブレイン」という造語を生み出し、同名の著書を執筆したのだ。
では「脳の再編能力」とはどういうことなのか、まずは中澤教授の研究結果の一部をご紹介しよう。

ケース1:健常者の記録を超えた、義足のパラリンピアンの脳

ドイツの義足の走り幅跳び選手、マルクス・レーム氏。

ドイツの走り幅跳びのジャンパー、マルクス・レーム選手は、2003年の夏に事故で右脚のひざ下を切断し義足となった後に陸上競技生活をスタート。ロンドン、リオ、東京のパラリンピックではいずれも金メダルを獲得している。2021年のヨーロッパ選手権では、走り幅跳びのオリンピック記録を超える8メートル62センチという健常者を超える世界記録を出したことから、「競技用義足の性能が競技力を高めているのではないか」と議論になり、スポーツ界に一石を投じたことでも有名だ。そんな彼の脳をMRIを使って調べたのが中澤教授。

「脳科学の分野では昔からある表現ですが『道具の身体化』という言葉があります。これは、たとえば義足をつけた場合、脳が道具であるはずの義足を自分の体の一部とみなすようになるという現象です。レーム選手の脳を調べることで、この身体化を科学的に証明する証拠が出てくるかと期待したのですが、残念ながらあまり出てこなかった。しかし、それとは別に全く予想しなかった驚くべき結果を得ることができたんです」(中澤教授)

その驚くべき結果とは「同側運動野の活動」である。どういうことかと言うと、健常者の場合、左半身を動かしているのは右脳で、反対に右半身は左脳がを動かしている。よく脳梗塞などで右脳に損傷が起きると左半身が麻痺するというのは、こうした脳と体の関係が影響している。ところがレーム選手の場合、義足をつけている右脚を動かす場合、通常は使われないはずの右側の脳も使っていることが測定されたのだ。

「健常者の場合、レーム選手のように右脳が右半身を動かすことはあり得ません。しかしレーム選手の場合は、義足に直結している脚を使うときは両方の脳が活動するという、予想もしていなかった珍しい結果を得ることができました。そこで今度は、義足の人をたくさん集めて同じようにMRIで調べたところ、義足で長期間スポーツをやっていた人の中には、レーム選手のように両方の脳で義足のある脚を動かしている人が一定数いることが分かりました」(中澤教授)

このように、人間は身体のどこかに障がいが発生すると、それを補おうとして、脳がその働きや構造を変化させる、つまり「脳の再編」が行われている。ただし、義足の人の脳がすべて同様の動きをしているわけではないそうだ。まだまだ研究の途上ではあるが、レーム選手の場合は「義足を用いて幅跳びで好記録を打ち立てる」という特殊な運動スキルを習得するために、継続的に実施してきたトレーニングによる影響が大きいと中澤教授は考えている。

ケース2:指先を超えた足を持つ、腕のないアーチェリー選手

photo by 東京パラリンピックに出場したアメリカ代表のマット・スタッツマン選手。

アーチェリーのマット・スタッツマン選手は生まれつき両腕がない。2008年から本格的にアーチェリーを始めた彼は2012年にアメリカ代表としてパラリンピックに出場すると、見事銀メダルを獲得。2015年には人類史上最も遠い的を射貫きギネス記録に登録されるなど、パラスポーツを代表する選手の一人となった。

中澤教授はそんな彼の脳についても調べる機会を得た。まず行ったのは、板に空いた穴の中に小さな棒を入れて立てるという作業を1分間で何個できるかという検査。スタッツマン選手は足を使い所定時間よりも早い50秒で25個あった全ての棒を立ててしまったという。彼にとってこれくらいは朝飯前で、その他の検査でも軒並み素晴らしい結果を出した。
スタッツマン選手は、先に紹介した後天的に脚を切断したレーム選手とは異なり、先天的に両腕がない。もともとあったものを脳が記憶していて、それの代わりとなる働きをするようになるのは想像がつくが、もともと無かったものが「再編」されることはあるのだろうか?
これについて、中澤教授がレーム選手同様MRIなどを使って調べたところ、やはりスタッツマン選手の脳でも再編が行われていたことが明らかになった。
健常者が手の指などを動かす時に使う脳の領域が、スタッツマン選手の脳では、足指を動かす領域に完全にとって代わられていたことが分かったのだ。

パラアスリートの脳研究が再生医療の発展に貢献?

障がいが先天的なものであっても、後天的なものであっても、パラアスリートの脳では再編成が起きる。ただし、上肢や下肢がない全ての人に同じようなことが起こるかというと、ことはそれほど単純ではなく、これからさらに研究が必要だと中澤教授は言う。

「義足をつけた人がレーム選手のように必ず健常者以上の能力を出せるかどうかということはまだ分かっていません。ただ、パラアスリートの脳を調べた結果、義足などを使いこなせるようにトレーニングをし続けたら、健常者では眠っているような神経の経路が動き出すということが分かりました。特にスポーツでは義足は歩くためだけのものでなく、よりよい記録を出すために高度に使いこなさなければならない。そのトレーニングが脳の再編に影響しているだろうというところまでは分かりました。この結果は、今後リハビリテーションや、iPS細胞を使った再生医療の分野でとても重要になってくると思います」(中澤教授)

パラアスリートの脳の研究は、肉体だけでなく脳が通常ではあり得ない進化をしていることを教えてくれる。そしてさらにそこから、人間の脳の持つ更なる可能性をも示してくれているのだ。

子どもの頃に複数のスポーツを経験するとプログラムの数が増える

ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手。2021年にはアメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に史上19人目の満票で選出された。

人間の脳の可能性という点で、中澤教授が面白い話をしてくれた。それは子どもの頃にさまざまな運動を経験した場合、将来的に応用が効くという話だ。

「人間の体に何百もある筋肉をどう使うか、一つひとつの筋肉をどれくらいの強さで使うかということを、脳が逐一指示しなければならないとしたら、膨大な情報処理が必要になって、脳がパンクしてしまいます。ですから人間の筋肉の活動はプログラム化のようなことがされているんです。たとえば、赤ちゃんが歩けるようになると、『歩く』というプログラムが出来て、あとは脳がいちいち指示をしなくてもそのプログラムを使って自動的に歩けるようになる。人間の脳にそうしたプログラムがいくつあるのかを調べたところ、意外に少なかったんです。つまり人は基本的なプログラムの組み合わせで、いろいろな動きをしているということです。ということは、小さい時にいろいろな種類の運動をやって多くのプログラムを持つことができれば、組み合わせのレパートリーが広がることになり、大人になってから、いろいろな場面で応用が効く。これが小さいときに、あまり運動する機会が無く、運動のプログラムをたくさん身につけることができないと応用が効かなくなります。ですから子どもの頃に、いろいろなスポーツを経験して、走る、投げる、打つ、跳ぶなどたくさんの動きのプログラムを獲得することは、とても重要だと思います」(中澤教授)

現在、世界で活躍しているプロのアスリートの中にも、子どもの頃から複数のスポーツをしていた人が多くみられる。たとえば野球の大谷翔平選手は水泳とバトミントン、テニスの錦織圭選手は水泳やサッカー、バスケットボールの八村塁選手は野球。彼らは子どもの頃に複数のスポーツに慣れ親しんだことで、複数のプログラムを獲得したのかもしれない。

東京パラリンピックが見せてくれたもの

中澤教授の研究結果は今後専門分野であるリハビリテーションの分野に還元されていくことになるだろう。しかし、当の中澤教授は、リハビリを必要とする人たちにむやみに「頑張れ」とは言えないと語る。それは、リハビリには効果があると言うは簡単だが、実際に続けるのは辛いことも多いからだそうだ。そんな中、2021年に行われた東京パラリンピックを見た中澤教授はパラアスリートの姿に希望の光を見たと言う。

「あんなに重度の障がいがあっても、あれだけのことが出来ることを知って感動した、などということがよく言われました。それも事実ではありますが、もっと重い障がいを持っている人たちの中には、いろいろなことを諦めてしまっている人もいます。しかしパラアスリートたちは一生懸命練習したら、肉体だけでなく脳がものすごく変化するんだという、人間の脳の可能性を見せてくれたんだと思います。それはリハビリにも、ものすごい可能性があるということでもありますから、自分がまだ知らない能力があるらしい、だからやればやった分だけ、自分に返ってくるんだということを、リハビリが必要な方たちに知ってほしいですね」(中澤教授)

東京パラリンピックでは、多くのパラアスリートが目覚ましい活躍を見せてくれた。しかし、彼らはもっともっと記録を伸ばし高いパフォーマンスを見せてくれる可能性を秘めている。そしてその活躍は、障がいのある人たちだけでなく、全ての人間が自分でもまだ気づいていない能力を発揮する可能性を秘めているかもしれないという希望を人類に与えてくれている。パラリンピックブレインの研究は始まったばかりだが、その鍵となるパラアスリートたちの活躍にこれからも期待したい。

text by Kaori Hamanaka(Parasapo Lab)
photo by by Keiji Takahashi, Getty Images Sports, Shutterstock

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